人づくりちょっといい話10
教育は奥が深い
江戸末期から明治の開国に至る時期に、吉田松陰が主宰した松下村塾では、画一教育を絶対にしませんでした。高杉晋作が「『孟子』が読みたい」と言えば「じゃあ、『孟子』を読みなさい」と言って読ませ、伊藤博文が「『論語』が読みたい」と言えば、彼には『論語』を読ませます。生徒は分からないことがあると「ハイ、先生」と手を挙げるので、松蔭先生は傍らへ行って「どこが分からないんだ?」と聞き、「それはこういう意味だ」と教えました。
吉田松陰だって万巻の書を読んだわけではありませんから、分からないこともありますね。山縣有朋が「先生、ここが分からない」と言います。山縣有朋は漢詩や『墨子』など難しい作品を読む人でした。松蔭は「先生もよく分からないから、今晩家へ帰って勉強して、明日の朝教えてやる」と答えます。
実際、松下村塾が終わると家へ帰って、生徒の質問箇所を徹夜で勉強したそうです。翌日、目を真っ赤にして出てきて「おい、山縣、お前の問うたのはこういうことだぞ」とちゃんと教えた。そのうち、生徒たちの間に「松蔭先生は、質問をして分からないことがあると一晩寝ずに考えてくださる方だ」という評価が浸透し、やがて「この先生のためだったら死のう」という気持ちに発展していきます。
吉田松陰が彼らに教えたのは「狂」という字でした。狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」を指します。松蔭は生徒に、「『狂』を持て」と言います。それで山縣有朋は自分の名前を変えて山縣狂介とするんですね。高杉晋作は東洋の一狂生(普通は一書生と言いますよね)と名乗ります。そうやって生徒たちは松蔭の言う「狂」という字を、心の底でトンと受け止めました。「先生も生徒も一緒に育つのが学習だ」という考えの実践を、松蔭の松下村塾だけでなく、広瀬淡窓の咸宜園もやっていた。つまり江戸時代の塾というのは、先生も生徒も一緒に燃えていたということですね。
それぞれの問題意識で読んでみると、古書を古読しない。古読しないと「百年も前にこんなことを言っていたんだ」と驚くことがある。雑書の片隅に、名もない人の投書でキラッと1行光る文章があって、「ああ、こういうことだったのか」とそれこそ目から鱗が落ちる思いがする。そういう発見があるんじゃないかと思うんですね。
それが、教育者、森信三先生の「テストは何か」というお話につながります。テストは子どもがどのくらい教わったことを理解しているかということのテストなんだと。つまり、テストは教えた先生の側にもある、先生がテストされているんだというんです。私は静岡県から「人づくり百年の計委員会」の会長を仰せつかっていろいろな本を読みましたし、先輩たちの話も聞いて出発したのですが、ここのところを、先生と子どもの関係を上から下に、つまり垂直的に考えていました。そうではなかったんですね。教える側と教わる側というのは、垂直的な関係ではなく水平的な横並びな関係なんですね。人が人にものを伝えるということはそういうことだったんですね。
草柳大蔵著「午前8時のメッセージ99話」(H21年発行静新新書)より
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