第6回伊豆文学賞 優秀賞「百音の序曲」

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ページID1044428  更新日 2023年1月11日

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優秀賞「百音の序曲」

鈴木 ゆき江

あいにくの雨は、朝のうちから温泉町の人々の気を揉ませたまま、昼近くなっても止む気配がなかった。温泉街が、すっぽりと雨に塗り込められている。
きょう四月二十一日は、この辺り最大の祭り、年に一度の「春のお弘法さん」の日だった。
それでも昼を過ぎると、大祭を迎えた修禅寺の境内には少しづつ人が出て、本堂の前から参門の下の石段にかけて、こうもり傘の花が咲き、幾重もの人垣が出来上っていく。
百音は、本堂から少し離れた鐘楼の下にたたずんで、長いこと傘の中からそれらを眺めていた。
本堂の回廊に控えていた華やかな湯くみの娘たちの行列が、そろそろと参道に下りてくる。百音も、それに合わせるように少しづつ人垣の背後に歩み寄ると、爪先立って、肩の隙間から人垣の中を覗いた。

「百音さん、何を遠慮してるの。もっと前に出て見なさいよ。娘さんが出てるんでしょ」
前の列から振り向きざま、同じ職場の洗い場のおばちゃんが百音の手をぐいと引く。
「いいんです。わたしはここで」

そう答えながらも手を引かれ、あわてて傘をすぼめた百音は、見物の最前列に進み出てしまった。百音は娘の姿を目の中に入れながら、こんなふうに人前に押し出ることの出来た自分に驚いていた。
夫と別れ、娘を連れて二十余年ぶりに修善寺へ戻って来て、一年足らず。娘の葉子にとっては馴染みのない町のはずが、ちゃっかりと町の行事に応募して、湯くみ娘になりすましている。
そんな我が娘にも目を見張りつつ、百音は、遠い幼い頃の祭りの中に運ばれていくようで、今やっと帰って来たのだと、湯くみの行列を見送った。
行列は傘を差した露払いを先頭に、二人の僧侶、笛、その後から湯くみ娘たちが二人一組になって、一人は傘を一人は桶を持ち、薄桃色に白い花を散らした小袖に赤いタスキ掛で、参門をくぐり出ていった。
本来なら、行列にはお稚児さんが並ぶのだけれど、折り悪しく雨に降られ、稚児たちは着飾ったままの姿で、こちらもまた晴れ着姿の母親たちに付き添われて、本堂や回廊にあふれ返っている。
百音は、その声までも高く晴れがましい稚児たちに目をやってから、ふっと、操られるように鐘つき堂の一角を振り返った。
一瞬、そこに見たのは幼い頃の百音の姿だった。鐘楼の石垣に張り付いて、お稚児さんに目を奪われている小さな百音。その小さな百音の射るような視線を浴びたような気がして、知らず知らず自分もまた射るような目になって、本堂を振り仰いだ。
あのときの「おこうぼうさん」も、雨であった。

幼い百音は傘を差していなかった。鐘楼に身を寄せ、石垣をつたってくる雨の雫もかまわず、百音の目は自分と同じ年恰好のお稚児さんに釘付けだった。雨の中でもキラキラ光る髪飾りや衣裳をつけて、お白粉や紅をつけたお稚児さんは、気高い人形のようだと感心していた。と、
「なんだねえ、傘もささず」
そういって傘を差し掛けたのは、百音が「角屋のばあば」と呼んでいる、角の射的屋の店番のおばあさんだった。傘の真ん中で、透き通るような白い顔が笑っていた。
百音は何故かひどくきまりが悪くなり、反射的に駆け出そうとすると、
「これこれ、風邪をひくじゃないか」
思いの外強い力で腕をつかまれ、おばあさんの蛇の目の中に引き入れられた。百音はその傘の中から見る、赤と紫の丸い輪模様が好きで、おばあさんの宝物に違いないと思う。いつもはそっと仕舞ってある、おばあさんの心の錦のような気がした。
パラパラパラ、小さな太鼓を鳴らすように、おばあさんの蛇の目傘を雨が打つ。
「いい音でしょ」
「うん、とってもいい音」
百音が心底感心すると、
「百音ちゃんのお耳はいいお耳だねえ。あたしね、この音を聞くと、いっつも思い出すの。ばあばが小さかったころ、学校へね、たったの一度だけ傘を届けてくれたお母ちゃんと、雨ん中をいっしょに帰ったときのことだけど」
そこまで聞いて、百音は蛇の目を飛び出した。おばあさんの、
「おまち!」
という細い声を振りきって、百音は見物の人垣をすり抜け、参道を駆け下り、通りを横切って、虎渓橋まで走った。

百音は、もっと小さな頃から橋が好きだった。橋は、狭くて長くていい音がした。それに、橋の上から見ると、向こうの方からやって来た川が、橋の下をくぐるだけで、もう反対の方へどんどん行ってしまう。そんな手品を見せる橋が、不思議でならないのだった。
あとで角屋のばあばは、百音の祖母のところにやってきて、百音に謝まっておいて欲しいと頼んだという。角屋のばあばの母親は、昼間から酒を呑んで子どもを折檻するような、ひどい母親だったそうだと祖母はいい、そんなひどい母親は、いない方が余程いいのだと力を込めた。百音は、角屋の前を通る度、かわいそうなおばあさんのために、店先から道路に飛び出したコルクの弾を、目ざとく見付けてはおばあさんを喜ばせた。
百音は、父と祖母の三人暮らしだった。
父は盲人で、ホテルや旅館からマッサージの依頼が入ると出向いていき、祖母は、旅館の掃除や雑用の仕事をしていた。他に目の見えない兄と姉がいて、二人は盲学校の寮に入り家族と別れて暮していたのだった。
母もまた盲人だった。三番目に生まれた女の子に、「百音」と名付けたのは母だという。両親にとって百音は、ただ一人目の見える子どもであった。そんな百音を残して母は、まだ百音が二歳の頃、実家に帰っていったのだった。

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