第5回伊豆文学賞 優秀賞「ドリスの特別な日」
優秀賞「ドリスの特別な日」
長山志信
朝、六時過ぎに目覚まし時計が耳元で鳴り響き、ドリスは慌てて飛び起きた。タイマーは五時四十五分にセットしてあったはずで、二十分以上もベルが鳴り響いていたのに気づかなかったのである。ドリスは掛け布団をはねのけて洗面所で顔を洗い、結露に覆われた窓を見つめながら作業着に着替えた。歯を磨こうとして歯ブラシと歯磨き粉を手にとったがすぐにもとあった場所へ戻す。遅刻したらまずい。伊豆の『高原旅館』で働きはじめてすぐ、遅刻が原因で辞めさせられた若者たちが何人もいると聞いた。ドリスは襟にタオルを巻いて結び、乱れた髪を手で押さえながらとりあえず外に出た。
今日は午前中から別館すべての階段に掃除機をかけ、雑巾掛けをしなければならない日だ。昨夜、突然ドリスら清掃員は専務の及川に呼び出され、徹底的にやるようにと命じられたのだった。
外に出ると風は冷たい。季節が冬を迎えようとしていた。日本に来てから二度目の冬だ。
旅館に来るお客様の頬をも赤く染めるような冷たい風が朝から吹いている。十一月下旬、紅葉も終わり、一番観光客の来ない時期であった。
旅館の裏手の空き地に、プレハブ造りの職食(職員食堂)が鬱蒼と茂った雑草のなかにぽつんと建っている。従業員専用の寮があるのは、そのさらに後方だ。秋になってもまわりに淡い紫色のアサガオが咲き、緑の濃いアシタバとあいまって景観は悪くない。
職食に向かって走っていると、扉の前でタツコ婆と出くわした。タツコ婆は、
「そんなに急ぎゃあすな。あんたが急いだら、私まで急がなかんくなるがね」
と、この土地の言葉とはまた別の方言を使って言うのだった。確かに七時までにタイムカードを記録すればいいのでまだ時間はある。が、もともと六時に職食へ来いと言ったのはタツコ婆のほうだ。結局自分も時間通りに起きられなかったので体裁が悪いのだろう。ドリスは釈然としないまま一緒に職食へ入り、簡単な朝食の準備をした。食堂のなかの空気も、外気と同様冷え切っていた。
同じ清掃員のタツコ婆とは、毎朝静かな職員食堂でコーヒーを飲む仲だ。しかし彼女からしゃべりかけられることは滅多にない。以前売店で働くヤスダから、
「もうしてボケちまった」
と言われたことがあるが、仕事をさぼって他の従業員や近所に住む老婆たちと談笑していることを何度か目にしたことがある。まだ健在だということは知っていた。自分がガイジンだから、相手にされないのだとドリスもうすうす勘づいていた。
日本に来てから二年、やっと畳の上に敷かれた布団の上で寝ることにも慣れてきた。職食で、タツコ婆とクロワッサンを頬張りながら砂糖も入れないコーヒーを飲むことにも慣れてきた。何も新しいことが起こらない、退屈だが穏やかな毎日にも慣れてきた。
窓を通してカラマツの枯れ葉が何枚か舞っている。静かな朝だった。食堂のなかではタツコ婆がコーヒーをすする音以外、何も聞こえてはこない。窓のほうばかりを見つめていると、不意にタツコ婆が立ち上がり、皿とカップを持って洗い場のほうへ向かいだした。ドリスはクロワッサンを口にくわえたまま急いでタツコ婆を追い掛け、職食をあとにした。
清掃員の控え室で掃除機を手にすると別館へ向かった。別館の玄関先に敷かれた絨毯からフロントカウンター周辺まで掃除機をかける。ロビーから売店の前を通り、エレベーターの乗降口まで掃除をするためには一時間以上が必要だ。ロビーの壁に取り付けられた時計で時刻を確認すると朝の七時。朝の早い客なら、そろそろチェックアウトがはじまる時刻であった。
高原旅館の本館は四十年以上も前に建てられた古い木造の建物だが、四年前に営業をはじめたという別館のほうは、鉄筋コンクリート造りで近代的な様相を呈している。三階建ての本館に比べ別館は六階建てと、隣接するホテルと比べても遜色のない大きさを誇っている。
「ドリスちゃん、今日もがんばろうな!」
売店に勤めるヤスダが声をかけてきた。相変わらず大きな声だとドリスは思った。ほとんどの従業員と言葉も交わさないドリスだが、ヤスダとだけは笑顔で挨拶をした。顔いっぱいに皺を浮き立たせて手を振るヤスダに胸の前で小さく手を振って応じた。
ヤスダは伊東から伊豆急に乗って通勤しているというが、いつも朝七時前には出勤している。朝は陳列された菓子や民芸品を雑巾で拭いたり、レイアウトを変更したりして時間をつぶすのが日課だ。売店の書き入れ時は宿泊客がチェックアウトする直前で、その前に時間をかけて準備をしておく必要があるとヤスダは言っていた。
別館の部屋数は四十五。客室の掃除やメンテナンスをする従業員は五人ほどいたが、タツコ婆やドリスは客室の清掃には携わらない。本館や別館のトイレや洗面所、厨房や売店の専用倉庫の掃除ばかりをさせられた。以前は他の清掃員と一緒に客室にも出入りしたが、今年の夏を過ぎたころから専務の及川にタツコ婆と一緒に仕事をするようにと言われている。
フロント係のが、床に掃除機をかけているドリスの前を通り過ぎようとしていた。
「おはようございます」
いつも礼儀正しくドリスに笑いかけるこの青年は、スーツ姿でフロントに立つ、数少ない正社員のひとりである。旅館で働く従業員のほとんどは季節限定の契約社員か地元で雇われたパートタイムのバイトで、及川や由岡をはじめとする正規で採用された社員は十人にも満たない。いずれこの旅館を任されることになると噂される由岡にドリスは小さく会釈し、早足で横をすり抜けようとした。
「最近、特に寒くなってきましたね」
由岡に声をかけられてもドリスは言葉を返さなかった。掃除機の胴体とホースをかかえたままそそくさとエレベーターホールに向かって移動した。数歩歩いてから振り返ってみると、由岡は他の給仕と朝の挨拶を交わしていた。
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