第5回伊豆文学賞 佳作「占い坂」
佳作「占い坂」
条田 念
慶応四年一月(九月に明治と改元)
全ての葉を落とした欅の枝が、天に向かって細い手を延ばし訴えているように見える。樹齢三百年を越す古木の間を抜けると、近村から集められた農家の若者が洋式兵術の調練をしていた空き地がある。彼等の方が武士より機を見るのが敏であった。去年の秋の稲刈りに帰った者はそのまま戻って来なかった。久能昌介は、まだ自分と同じ様に残っている者が居るかと木刀を手に神社の境内に来たのだが、誰も居ないのを見ると気が滅入って木刀を振る気も失せてしまった。
昌介と同じ立場の砲術や鋳造の技術を習得に、江戸や諸藩から集まった子弟が大勢居たのだが、ここ二、三日のうちに消えて行き、とうとう誰も居なくなってしまった。
古い神社の裏手にある道場で剣術師範をしている速水研四郎が、陽の当たる社の石段に一人で腰を下ろしているのに気が付いた。
近寄って挨拶をすると、
「久能、お主まだ居ったのか。そんな物振り回してもなんの足しにもならんぞ。上方から逃げ帰った奴の話しを聞いたろ。刀なんぞ小人数の果たし合いか暗殺位しか使えん姑息な道具だ。戦争となったら鉄砲の餌食になるばかりさ。その鉄砲だって徳川の火縄銃たぁ段違いの連発銃だそうだ。江戸へ行くなら早くせねば手遅れになるぞ」
昌介は江戸の屋敷に帰る気は無かった。
「江戸へは戻らぬつもりです」
「ふーん、それでどうする。ここにいつまでも居る訳には行かぬぞ。そうか久能の親父は稲取陣所の与力だったな、そこへ行くのか」
「はぁ」
漠然と返答をしたが、そうか稲取に行く手もあったかと思った。
「速水さんは多田さんの帰るまで待って居られるのですか」
「うーん、天下の将軍様が負けて逃げたと聞いたら、東海道は大混乱になっておろうし、大阪では鈴鹿へ出るしかあるまいが」
将軍慶喜が、長州軍に包囲されている御所を奪還に、京に向かう幕府軍の兵を集めていると、この韮山に速水の友人である多田が誘いに来てから一と月も経たない。江川家に寄宿し砲術を習っている者や、腕に覚えの有る者は負ける訳は無い好機到来とばかりに、たちまち十名ばかりの者が多田と同道して集合地の駿府に向かったのである。
会津、桑名の兵と合同した幕府軍は、圧倒的な人数にも拘らず、薩摩と結んだ長州軍に鳥羽、伏見で大敗北を喫し、将軍慶喜は大阪から船で逃げ出したと言う知らせが、三島の宿を通る旅人から伝わったのは三日前の正月十一日の事であった。
「いずれにしろここは街道からずれている。上手く逃げおおせても多田さんは江戸へ行くだろう。故郷のある奴はさっさと田舎へ引き上げてしまった。江戸の部屋住み者は、結局いやでも江戸へ戻るしかあるまい。ここに居っては江川家に迷惑を掛ける事になる」
昌介はその通りだと思った。速水さんが居なくなれば残るのは自分一人である。あの糞婆ぁや兄達が居る江戸屋敷へ戻る位なら、稲取の陣所に居る父の所の方がまだましだ。速水さんのお陰で踏ん切りが付いた。
「分かりました、私は稲取に行ってみます。これからお屋敷に御挨拶してきましょう」
伊豆半島は狩野川の河口の沼津から、上流の長岡あたりまでがやっと平坦の地で、他は全て海から突き出た山と言って良い。海岸縁の僅かな平地に点々と小さな漁村があり、山中に至っては北の狩野川、南の河津川などの流域に僅かな人家が点在しているばかりである。江戸時代の価値の基準は米であり、水田の少ない伊豆には徳川の藩制時代を通じて藩が存在しない。伊豆は幕府直轄領と、細分化された旗本の知行地とが入り交じっている。韮山の江川家は鎌倉時代以来の名家で、小田原攻め以来家康に服し、各地に十万石に達する支配地を持つ大名に匹敵する大家であり、代官としての地位を世襲している。当主は代々太郎左衛門の名を継承し、天保六年に十代目韮山代官を継いだ三十六代目の江川英龍が、進歩的思想と先見性のある行動力で著名である。天保の改革を進める水野忠邦の幕制に参与し、外国船の渡来に備え国防の必要を建議したが、その実現を見ずに病を発し、出府した翌年江戸屋敷にて没した。鳥居耀蔵など頑迷固陋な者の陰謀に同志を失い、開国を迫る諸外国の使節との対応に、心身共に疲れ果てた故であろう。
英龍が推奨した江戸湾の台場、反射炉、農兵の実現は、英龍の死後家督を許された嫡男の英敏が良く父の意思を継ぎ実現させたが、文久二年二十四歳の若さで病没した。父の死から僅か七年後の事であった。以来六年、家系は弟の英武が継ぎ江川家の意思である大砲の鋳造と習練、農兵の育成は継続されていたのである。時代の波に迎合するように、旗本や諸藩はその子弟を砲術習得に入門させた。昌介もその中の一人である。
父に連れられ江戸の江川屋敷を訪れ、家臣の方と面接し砲術の研修生として、同じ希望者三名とこの韮山に連れて来られた。
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