治水事業の変遷/沼川新放水路(仮称)計画

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ページID1042705  更新日 2023年1月24日

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資料編

治水事業の変遷

沼川治水事業の沿革

(1)近世における開拓と排水対策

近世封建社会において、その経済的基盤をなすものは農業であり、その支配的地位は近代社会まで続いた。江戸幕府は新田開発を奨励し、新田開発には特別な保護策が加えられていた。その中で、浮島ヶ原地域においても積極的に土地を開拓していこうとする動きが始まったが、その排水防水問題に積極的に取り組むようになったのは近世も後期にはいってからである。その代表的な事例を以下に挙げる。

  1. 高橋勇吉による排水対策(1850年代)
    大野新田・桧新田・田中新田の三新田は沼川からの浸水を防ぐために堤防を堅固にしたため、いったん水が溜ったり、侵入したりすると、逆に排水が困難となり、しかも赤渕川の流出する土砂の堆積により沼川の河床が高くなり、より排水が困難となったため排水路溝をより下流側へつけ替えることにより排水を容易なものとした。
  2. 増田平四郎による暗渠堀割(1860年代~)
    原宿における新田開発のために沼の水を排水するための排水路を計画し、明治2年に竣工したもの、その年の8月に襲った津波により堀割の大半が破壊・埋没し、再び工事を行なうことは不可能であり、計画は断念された。
    しかし、この排水路の地点は現在の昭和放水路の場所と同一であり、当時においてこの地点を選定したことは土木技術のうえでもすばらしい計画であった。
  3. 野村一郎による防砂堤(1860年代~)
    浮島沼の水害を治めるためには、沼川の河口に堆積する砂礫を排除し、防水の便をはかる以外に根本的な解決方法はないという考えに立って、河口に砂防用の突堤を築く計画を立て、1867年秋には突堤は両岸とも完成した。しかし、完成後2カ年を経過した1869年夏の大暴雨で築堤は大破し崩れ去ってしまった。
    以上のように江戸時代末期から明治初期の時代は、土木技術の未熟さから沼川の排水に対する問題解決はかなり困難なものであった。

写真:増田平四郎像

(2)明治・大正の排水対策

明治・大正の時代に入り、土木技術の進歩と、第一次産業の全盛期における国の政策から、浮島沼周辺においても新田開発と様々な防潮・排水対策がなされるようになった。特に、明治・大正年代における最大の実績は吉原湊口の沼川石水門の完成であり、これにより逆潮による塩害の防止に一応の解決をもたらすとともに、排水問題をよりクローズアップすることになった。また、大正年代は排水問題について科学的調査が活発に行なわれた時代でもあった。

  1. 沼川石水門
    湊口における逆潮の被害を防ぐためには逆水門が必要不可欠であり、幾度かの計画と失敗をかさねながらも地元住民の同意と団結を図るとともに政府にも支援を求めた。これにより明治14年には内務省御雇外人技師であるオランダのモルテルの実地踏査が行われ、明治19年春には、一切の工事が完了し竣工式が行われた。この工事に際しては、特に県下で初めてセメントが使用され石と石の接着にすばらしい威力を示したといわれる。
    以来、石水門は「六つ眼鏡」と呼ばれ、沼川沿岸2,000余町歩の耕地を逆潮から防ぎ、大きな役割をはたした。
    明治30年代にはいると愛鷹山の山麓における開墾が進捗し、降雨のたびに土砂の流出が増大したため、土砂の堆積により沼川の河床が高くなり、排水を妨げ氾濫の度合いが高くなってきた。このため石水門を中心とする潮害防止から、沼川沿岸一帯にわたる排水問題の解決に焦点が移っていった。
  2. 沼川石水門組合・赤渕組合・沖田組合の活動
    当時、沼川の治水、排水対策において重要な働きをしたのが沼川石水門組合、赤渕組合といった町村組合であり、次のような活動を行った。
    • 「沼川石水門組合」
      沼川石水門及び護岸工事に関する事務の共同処理から排水問題の対策など多岐にわたる活動を行った。
    • 「赤渕組合」
      赤渕川と沼川の合流点付近の浚渫のため江戸時代から活動を開始した。明治以降、愛鷹山麓一帯の開墾から土砂の流出堆積が増大したため、明治20年以降浚渫組合として発展改組し、浚渫計画がたてられ組織的活動を行った。
    • 「沖田組合」
      一村あるいは、一部落単位でその所属する湖沼周辺や農地を共同防衛し、河川の浚渫や沼草の除草、堤防の保護管理を行った。
      ちなみに「沖田」とは沼の沖にある田の意味で、沖の田を保護するための組合であった。
  3. 浮島沼の科学調査
    沼川排水改良問題について、石水門組合は明治39年に調査を開始し、42年には県当局も調査に踏み出し、43年から44年にかけて県知事、内務部長、土木課長等が入れかわり沼川尻の視察を行い、県の関心がこの問題に向くようになった。
    大正時代初頭から沼川排水問題に対する科学的な調査がおこなわれるようになり、大正元年には理学博士横山又次郎・内務技師近藤仙太郎による調査が行われ、「浮島沼排水計画大要報告書」さらに「浮島沼区域地質調査報告書及び図面」がまとめられた。この横山博士の調査は、その後沼川排水改良事業推進のうえで基本的な指針となった。
    大正2年7月には、近藤・横山・上野の専門家の進言により静岡県としても改めて基本的調査を施行することに決定し、8月末には浮島沼地区排水計画の概要を作成した。
    大正6年には沼川流域系統図が作成され、大正7年11月から8年2月にかけて沼川沿岸排水改良に関する調査が行われた。
    大正8年から9年にかけて沼川排水による浮島沼干拓計画が進められ、大正9年には県土木課から浮島沼耕地利用について調査が行われ大正13年には牧野富太郎理学博士による植物調査が行われた。

写真:富士山と石水門

(3)昭和初期の沼川改良事業

昭和に入り、土木技術のさらなる向上と、第一次産業の推進により、より排水問題における安全性の向上が求められ、これまでの調査に基づく排水処理計画が実施されるようになった。特に沼川沿岸上流域の地域住民にとって、長年待ち望んでいた昭和放水路の完成により関係地元農民は年来の排水問題について飛躍的な解決とその恩恵を受けることとなった。

  1. 沼川改修工事
    昭和8年から10年にかけて、浮島沼の水位が増してきたため、沼川上流地域の水田は毎年冠水による被害で収穫がない状態であったが、沼川下流の耕地は年々収穫があり赤渕川を境として東西の相違がはっきりとわかれていた。
    これは、赤渕川からの土砂流出により、沼川の河床が高くなり、沼川の上流から下流への排水が不能となったことに加え、沼川下流では昭和8年から始められた県営沼川改修工事が河口から上流に向って進められたことにより、下流については極めて順調に排水が行われることとなったためである。これに対して東部(沼川上流)の農民は、赤渕川・沼川の合流地点の改修工事を第一期の下流工事完成と同時に着工するように陳情を行い、その結果、工事が行なわれることとなった。昭和11年6月には、河床は海面より六寸掘り下げられ、浮島沼の水位は低下した。
  2. 昭和放水路
    昭和放水路は須津沼において沼川により導水路を分岐開削し、海岸砂丘には暗渠を埋没して新たに駿河湾に排水口を設け、沼川東部流域の洪水量の大部分を排除するものであり、一時的な湛水を許容するものの、従来排水に十数日要したものを、3日以内に排水可能なように計画され、前述の改良工事と併せて耕地面積1,756町歩にわたる浸水被害を除去防止するという方針によるものであった。
    昭和放水路開削工事は昭和12年2月に着工され、昭和18年6月30日に竣工した。沼川改良工事を含めて10年も及ぶ事業であった。工事の行なわれた時期はまさに戦時中であり、資材不足・労働力不足のため工事は難航し、設計変更もしばしば行われた。

写真:昭和放水路

(4)戦後の沼川改修事業

敗戦前後の耐久生活の時期を過ぎ戦後の復興期と増産政策の時期を迎え、昭和20年後半に入るとしだいに昭和放水路のみでは、浮島沼地帯の排水問題の根本的な解決にはならないということが、特に、放水路より遠い東部地域の関係地元民の切実な問題として取り上げられるようになり、沼川地区排水改良事業として沼川第二放水路の計画・施行が行われ、これにより、営農的合理化の条件が整い、大いに期待されるところであった。
しかしながら長期にわたる事業の進捗過程の中で、農業立国から工業立国という日本経済そのものの体質変化が現れ、浮島沼周辺おいても工場敷地・宅地造成化といった土地開発が進められ始め、一般かんがい排水事業である沼川地区排水改良計画が、工事完了に当たって、本来のかんがい排水路としての役割をどの程度果たし得たかが大きな課題を与えられたことになった。言い換えれば、宅地・工場敷地が造成されていく過程で、かんがい用排水の目的と役割の中で改良事業を進めてきた沼川が、都市化されていこうとする地域に、どのように排水路としての役割を果たしていけるかが大きな問題となるようになった。

  1. 浮島沼干拓事業促進対策協議会
    昭和20年代半ばには愛鷹山の開墾が進み、さらに集中豪雨の頻発のため、大雨が降れば一時に水を流し、いわゆる愛鷹山の鉄砲水はいっきに浮島沼地帯に注ぎ込み、排水機能を失い、大雨毎に沼津市街以西の浮島沼2,000町歩は、昔ながらの一面の泥海と化してしまうといった状況が目立ってきた。
    このような状況化に置かれた地元関係市町村では、切実な排水問題の解決をはかるために、排水路新設工事を土地改良法に基づく県営の土地改良事業として取り上げてもらうための動きが始まり、昭和28年、浮島沼干拓事業促進協議会が設立され、協議会は静岡県定例議会に対し浮島沼干拓事業に関する件について請願を行った。内容としては、第二昭和放水路の新設、沼川排水系統の整備、須津川、赤渕川、春山川の整備の3点であった。
    この請願は、静岡県議会農林委員会において採択され、昭和28年末から昭和30年にかけては県土地改良課や農林省関係部署による第二昭和放水路に係わる調査・現地視察が行われた。
    昭和31年1月上旬、静岡県により沼川土地改良事業計画概要書により具体的な事業計画が示され、昭和32年には沼川改良区が設立された。
  2. 沼川排水改良事業
    県営沼川排水改良事業は、浮島沼東部の地域における排水状態を改善するために、高橋川と沼川排水幹線の合流点付近に昭和第二放水路を開削し、高橋川流域及び沼川東部流域から流出する洪水量を、そのまま駿河湾に放水し、地域全域の湛水量を既設の昭和放水路及び沼川の改良により短時間のうちに排除させる目的のもとに計画されたものである。
    具体的には以下の計画による。
    • 第二昭和放水路
      高橋川及び沼川との合流付近から導水開渠によって、ほぼ南西に向って流し、新国道南において鉄筋コンクリート函型暗渠三連の海岸暗渠により駿河湾に放流する。この放水路の建設は昭和38年に完成している。なお、現在は「沼川第二放水路」と名称が変更されている。
    • 高橋川改修
      高橋川においては屈曲を是正し、合流点から根方街道まで改修する。
    • 沼川改修
      沼川上流部については泥土の堆積を防除し、掃流力の向上を図るために複断面化し、県道原愛鷹線まで改修する。

以上の沼川土地改良区に係わる沼川排水改良事業及びその付帯工事である前川改修事業、そして放水路口の災害復旧の諸工事は昭和45年にすべて完了した。
これは事業の開始から実に16年にわたる大事業であり、これにより従来湛水の被害を蒙ってきた地域は二毛作化も可能になり、営農的合理化の条件は整い、大いに期待されるところであった。

写真:富士山と浮島ヶ原

地図:開拓歴史の様子
【出典:沼川治水史】
(5)現在の河川改修事業

昭和51年の水害を契機として、市街地の被害が甚大であった富士市側の沼川(滝川合流点より下流)、和田川、滝川では河川激甚災害対策特別緊急事業、沼川(滝川合流点~須津川合流点)、赤淵川、須津川では災害復旧助成事業による河川改修を実施した。
平成3年以降、沼川上流域の抜本的な治水対策として沼川新放水路の建設に着手しており、平成9年以降、暫定調整池の整備を実施している。
また、流域の市街化が著しい小潤井川では、昭和46年から小規模河川改修事業により河川改修を実施し、和田川では昭和63年から治水等特別対策事業として河川改修を実施した。
さらに、床上浸水被害の常襲地区である沼川(高橋川)流域、和田川・小潤井川・伝法沢川流域では、防災・河川・都市計画・農地及び道路など治水対策に関係する県及び市町の関係機関と住民が、浸水被害の実態や原因、対策の目標についての認識を共有しながら、短期間で豪雨による床上浸水被害を軽減するための取り組み(アクションプラン)を策定し、河川改修を実施している。

地図:河川修理状況

流域内河川及び市管理河川

沼川流域には、県管理河川の他に多くの市管理河川が存在し、その中で排水路網も整備されている。

地図:河川の状況

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