第7回伊豆文学賞 優秀賞「四十年目の夏に」

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ページID1044420  更新日 2023年1月11日

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優秀賞「四十年目の夏に」

志賀 幸一

ガソリンスタンド前の電柱の陰に、ヒッチハイクの少年が立っていた。紙にマジックで〈下田〉と書いて通る車に呼びかけていた。場所が悪い。こんな繁華な通りでは誰も停めてはくれなかろう。たいていの車は渋滞で少しばかり苛立っている。

英字入りのTシャツにスニカーという服装は普通だが、ヒッチハイカーなら着替えのシャツぐらいは持っているものだ。ナップザックも手荷物もない。

松屋の二階売り場から、ガラス越しに私はぼんやりそれを見ていた。自分の若い頃もたぶんあんな無鉄砲な危うさだったのだろう。
「なに見てる?」

松屋の社長が寄ってきた。この悟とは幼馴染みで好き勝手なことを言い合っている。
「あの子、どこから来たのかなぁ」
「ああ、あのヒッチハイク?」
「なんとなくひ弱そうだな」
「都会の子だね」

悟は興味もなさそうにまた奥へ戻ってゆく。息子二人と男の店員が二人いるが、商品が売れた時や入荷時には社長といえどもただの運び屋だ。家具は大きいので、
「割りの悪い商売だよ、まったく」

悟のいつもの愚痴が聞こえてきそうだ。場所ばかり広く取って効率が悪いというのである。そのくせ先代から親子二代五十年も営業してきて、最近になって鉄筋四階建ての店舗兼住宅を新築した。情熱は失っていない。

商品スペースを広げてスーパー化するのは近ごろ珍しいことではないが、売れ筋の商品ばかりではなくて、本物志向の手作り家具も置きたいというのが彼の夢であった。私にとっても悟の中にそうした昔気質が残っているのは、嬉しくもあり、ありがたくもあることである。さっそく私も含めた伊豆在住の職人たちによる郷土作品コーナーが設けられた。
〈伊豆の名工が、郷土の銘木を使い丹精こめて作り上げました。どうぞお部屋で、伊豆の木の香と温もりをお楽しみください〉
そういうキャッチフレーズである。値段も安くないから彼流に言えば「割りの悪い」商品である。それだけにいっそう悟の心意気を感じるのである。

悟に「帰るよ」と一声かけて私は階下に降りた。空になった軽トラの荷台を片付けた。小ぶりの整理たんすとテーブル類を幾つか運んできたのだ。二カ月分の作品である。

今回は地元で「イヌエンジ」と呼ばれている槐のムクのテーブルに自信がある。木の形を生かしながら見えないところに現代ふうの機能を加えた。たとえば太めの脚に子電話器の置き場を作ったりしてある。

七月末の真昼。運転席のシートが焼けるほどに熱い。街が暑さにあえいでいる。
妻に頼まれた食品をスーパーで買って、再び松屋の前を通ると、ヒッチハイクの少年がまだ立っていた。待ちくたびれたか紙の位置が胸から腹のあたりへ下がっている。
「修善寺までなら乗せてやるよ」

少年の前を四五メートル行き過ぎたところで、私は衝動的にブレーキを踏んだ。松屋の二階で眺めていたときは停まってやるつもりはなかった。暑いのにエアコンもない軽トラでは却って迷惑だろうとも思ったのだ。
少年がはっとしたようにこっちを向いた。すぐに白い歯が見え、待ちくたびれていたわりにはおっとりと駆けてきた。
「……いいんですか?」

たぶん高校生だろう。体ばかり大きくても、喜んで乗り込んでくる顔はまだ幼い。
「どこから来たんだね?」

走りだしてから訊いた。
「東京です」
「夏休みに、伊豆半島ひとり旅ってとこか。いいなぁ、若い人は」
少年は曖昧に笑っただけでそれには答えなかった。
「ずっとヒッチハイクで?」
「いえ、三島まで新幹線で来ました」
「ほう、新幹線でね……」

意外な返事に私は戸惑った。「長距離トラックの助手席に乗せてもらって」というような答えが普通である。新幹線の料金が払えるのなら、本当はヒッチハイクの必要もない。金があるくせに無銭旅行の体験だけを味わいたいというのだろうか。高度成長からバブル期に育った子供は金銭感覚が違う。私は少年の横顔をあらためて眺めた。少し青白い。いかにも「お坊ちゃん」という感じである。乗せてやって損をしたような気分になった。
三島市の信号の多い町並みを抜けたが車の渋滞は消えない。これでも有料の修善寺道路ができて旅の車が減ったのだ。
「伊豆は暑いですね」
少年がぽつりと言った。私がずっと黙っているので気詰まりになったのだろう。
「東京のほうが暑いよ」

ぶっきらぼうに答えた。車にエアコンがなければ北海道だって暑い。
「東京にいたことがあるんですか?」
「三十年近くも住んでたよ」
夏でもスーツを着てとびまわっていた。冷房の効いた建物や車から出ると、コンクリートの街は灼熱地獄だ。冷房の排出熱、車の排気ガス、人いきれ、人工的ないやな暑さだった。
「君は、閑静なところにいるとみえるね」
「西麻布の……マンションです」
「ああ……大使館なんかがあるところね」

そのあたりはいわゆる高級住宅街である。樹木も多いし風もさわやかだ。父親はきっと高級官吏とかいうのだろう。

この136号線は414号線に接続して、昔から下田街道と呼ばれている。肥田を過ぎるとやがて狩野川が見えてくる。スピードが増して風が入ってきた。二時を過ぎていた。
「今夜は下田で泊まるつもりかね?」
「ええ……」

少年はなぜか曖昧に頷いたが、
「五千円で泊まれますか?」

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