第8回伊豆文学賞 優秀賞「曲師」

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ページID1044409  更新日 2023年1月11日

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優秀賞「曲師」

志賀幸一

沢崎志津子の家は西伊豆の戸田村にあった。町の大通りをそれて少し登った見晴らしの良い場所である。庭に植木や花壇がある。そこから海が見えた。漁業の町特有の生温かな潮のにおいが吹き上げてくる。私は車から出て大きく伸びをした。
志津子の息子は会社を起こして成功していると聞いている。志津子自身も隠棲するについてはそれなりの蓄えも残したのであろう、広い家に中年のお手伝いを一人置いて豊かに暮らしているようだった。
むろん前もって取材はオファーしてある。

志津子は和服で現れた。想像していたよりも意外に若い容姿に驚いた。とても七十四歳には見えない。色白でふっくらとした優雅な顔だちである。律義に挨拶する姿は板についたというか、華やかさの片鱗を残した風格というか、さすがと思わせるものがあった。それは同時に、私の中にある錯誤があったことを気づかせた。

少し前まで、私は著名な芸能人や文化人たちが集まって企画した「消え行く日本の大道芸、民俗芸を偲ぶ」運動に関わっていた。流し芸、門付芸として知られる「瞽女歌」「よされ節」「あいや節」などの伝承者とか、露天商の売り口上の名人とかを探しだして録音し記事にしてきた。当然ながらみんなかなりの高齢者であった。深く刻まれた皺。節くれだった指。錆びた声。それは長い風雪に耐えてきた勲章のようなもので、私たちの目的もそうした辛酸を嘗めた芸や技の片鱗から一つの時代や文化を回想するというものだから、それはそれで満足するものであるが、そんな人々ばかりと接してきた私は、いつのまにか私の中にある固定的な観念を作りあげてしまっていたらしい。高齢で引退した浪曲の三味線弾きが、今どこでどういう生き方をしているかという問いに、露骨に言えば?ひっそり」とか?うらぶれた」とかいうような、失礼な想像を即断していたところがあった。私はときどきこういう粗忽をする。

考えてみれば浪曲はひところの全盛には遠く及ばないものの、まだ現役で各地で興行もしているし、ラジオ放送も月に何回かあるのだから、消え行く大道芸などと同一にすべきものではない。ましてや、目の前にいる沢崎志津子は、浪曲全盛時に当時人気絶頂だった広田繁造の専属三味線だった人である。今で言うなら、何千人ものファンを集める人気歌手やグループの専属演奏者である。フリーになってからも、NHKの専属になったり、民放の素人浪曲道場などの三味線を担当していた。老いても退いてもそこには一流芸人のプライドがあり、その華やかさの片鱗は死ぬまで消えないものであろう。

革張りの豪華な椅子のある部屋に通された。隣室が床の間つきの和室。仕切りの戸が開いているのでよく見える。若いカメラマンの小野が、彼は「消えゆく日本の……」の取材をいっしょにやってきたパートナーだが、
「今までと、少し勝手が違いますね」
と囁いた。私は自分も粗忽だったことを棚にあげて?あたりまえだよ」と少し怒った顔を装った。
志津子はいったん奥にひっこんだが、すぐに現れてゆったりと席につく。私はさりげなく伊豆の風物などを賛美しながら、
「今のテレビ時代は、早口のアドリブばかりで、じっくり芸を楽しむ余裕がありません。芸という言葉が廃れる危機さえ感じます。あなたの生きてきた道を語っていただくことで、浪曲の三味線とはいかなるものか、芸とはなにかがわかる。そういう企画でして……」
やおら取材にとりかかった。小型のテープレコーダーをセットしてテーブルに置いた。
「そうすると……今日は、三味線は弾かなくてもいいんですか?」
と、志津子は怪訝な顔をした。
「弾いていただけるなら、それはそれで記事にしますけど、これは出版社の企画ですので、その録音を紹介することはできません」
仮にテレビ、ラジオの取材だとしても、すでに引退をして、何年何十年経ってしまった人の録音は意味がない。とうてい全盛時の芸におよばない。恥をかかせる結果になることだってある。「消えゆく……」何とかのテーマとは違うのである。
「はぁ……そういうことで……」
志津子はちょっとがっかりしたようだ。ちょうど茶菓を持って入ってきたお手伝いと顔を見合わせると、なぜか二人とも下を向いて笑いを噛み殺しているふうに見えた。
「どうかしましたか?」
「いえね……」

志津子の代わりにお手伝いが答えた。伊藤愛子という志津子の縁戚にあたる人だそうだ。お喋りが好きのようだ。志津子が「およしなさい」と遮ったが、しつこく訊いてゆくうちにわかってきた。録音と勘違いして、志津子は猛烈に三味線の稽古をしたというのだ。
「お志津さんは、毎日稽古してるんですよ。だから改めて稽古しなくてもって言ったんですけど、それじゃ駄目だって。もう強情なんだから」
「あんたがラジオ放送だって言うからよ」
肩を叩きあって笑い転げている。

東京からここへはずっと車で来た。三島から伊豆中央道などを経て戸田峠を越えてきた。峠からは初秋の駿河湾が一望だった。海に沿った戸田の町が見えた。幕末の一時期には、日本中が注目する黒船騒動の舞台となったが、その後はただの農漁業の町としてひっそりと生きてきた土地である。華やかな生活をしてきた志津子がどうしてここに住むようになったかは知らないが、いつまでも若くて陽気なのは、それほど退屈もしなかったからであろう。このお喋りなお手伝いと友達のように暮らしているからでもあろう。私はそんなことを考えながら二人を眺めていた。

だが、録音されると誤解して猛烈に稽古をしたというのは驚きである。隠棲をしたことにはさまざまな理由があろうが、いくつになっても芸人としてのプライドがあるのだろう。若さの源泉かもしれない。
愛子の話によると、ちかごろなぜか三味線ブームで、近所の若い主婦が大勢習いにくるという。どうりで部屋に入るときにちらりと見えたのだが、和室の大きなガラスケースに、延べたままの細棹が二丁もあった。他に小さなトランクや箱も入っていた。たぶん別の三味線もあるのであろう。

「お志津さんは、浪曲ばかりじゃなくて、長唄から新内、端唄、小唄。津軽三味線だって弾けますのよ。お金取って稽古所をやればいいって言うのに、みんなタダで教えちゃうんですから……」
「どれも、ごまかしなんですよ」
志津子は顔の前で手を振る。
「いいえそうじゃないわ。お志津さんのはみんなハコに入った芸です」
ハコというのは、この業界では?正統の、正規の」というふうに解される。そんな言葉をなにげなく使うところをみると、愛子もただのおばさんではなさそうだ。
「志津子さんは、どうしてこの戸田に住んでいるのですか?」
本題に入った。小野が立ってカメラのシャッターを切る。志津子の顔にフラッシュが当たった。

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