第8回伊豆文学賞 優秀賞「ヴォーリズの石畳」

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ページID1044410  更新日 2023年1月11日

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優秀賞「ヴォーリズの石畳」

鎌田雪里

明治三十七年の夏、一隻の和船が下田に到着した。
沼津からのその船は、何から何まで木製の、やや時代遅れのスタイルで、駿河湾を伊豆半島にそって南下してきたのだった。
眠気を誘う昼下がりの漁港に、桟橋を歩く和装の客の下駄の音がかしましく響き、群れの中から頭一つ分飛び出している洋装の青年を孤独にする。あの日本の靴はいけない。試しに履いてあっという間に足指が赤むけた。どう発想したらあんな奇妙なものができるのだろう。
彼の名はウイリアム・メレル・ヴォーリズ。この一月にサンフランシスコを発って滋賀の近江八幡へ赴任した、経験六か月ばかりの新米アメリカ人英語教師である。

「あれか、総領事館は」
木造平屋のひしめく向こうへ、輝くばかりの白亜館が見える。
帽子を取って汗を拭き、俵ほどもある革鞄を持ち直し、人力車を止めようとして思いとどまる。建物は屋根だけで十分だ。誰でもよいから同郷の者に、会えないものだろうか。
青年は往来を眺め、ため息をもらして別の方角へ歩き出した。
投げ交わされる奇異の視線。
魚売りの声。

実のところ総領事館に用事などなかった。そもそも下田に用事があるわけではない。信州の軽井沢へ避暑に向かう途中、異国日本についての見聞を深めようと海路を選んだ。そうしてハリス総督が上陸したという下田を一目見んとてやってきたのだが、内心は、総領事館を訪れるであろう故国の者と言葉を交わしたい一念だった。軽井沢へ行けば米国人が大勢いるのは分かっている。分かってはいるが、残りの数日間が待ち切れないほど彼は寂しかったのである。
茶屋を見つけ、食卓にしか見えないベンチの端へ腰かけ、日本語で冷茶をたのむ。顔を上げると町民たちの目がサッと散る。
日本へ来て半年もたてばそういう反応にも慣れてくるし、世界の果てのような近江八幡の人びとは素朴であたたかく、受け持ちの高校生徒は礼儀正しくキリスト教への関心も高く、自宅で開いた聖書勉強会には初回に四十五名が参加したのだ。けれども今、無性に英語が聞きたい。バター付パンとコーヒーが欲しい。コロラドの両親に会いたい。弱音は吐くまいと決意して海を渡ってきたはずが、たった半年でホームシックにかかっている。

「おや?」
ヴォーリズは瞬きした。
茶を運んできた女のまげの向こうに、栗色の頭が見えたように思ったのだ。ホームシックで幻覚でも見たのだろうか。
奥へ目をこらすと、行き交う客と女給の隙間から、明らかに日本人のものではない明るい色の頭髪がのぞいた。
胸が高鳴った。
と、こちらへ視線が投げつけられ、あわててあらぬ方を向くも手遅れで、明るい色の髪に小麦粉をはたいたように見える皮膚の男は茶碗を置いて立ち上がり、人をよけて歩み寄ってきた。

「領事館へ行かれるのか」
あざやかなRの発音。発せられた英語にヴォーリズは陶酔した。茄子紺の縞紬に兵子帯を締めた、十七、八の青年だった。
「領事館へ、行かれるのか、と云った」
「い、いや---ここへは観光で来たんだ。領事館へは行かないよ」
ヴォーリズはこたえ、ベンチのわきへ寄って青年に席をすすめた。
「いい」と青年はそっぽを向いた。?この道でないから知らせてやろうと思っただけだ」
「君、アメリカ人かい」
たずねると、立ち去ろうとした彼は振り返り、そっけなく云った。?あんたは?」
「アメリカ人だよ。英語の教師をしてる」
「俺は日本人だ」
強い口調で青年が言った。?日本人」
「でも髪が違う。---遠くからでもわかったよ。それに中部の英語だ」
「日本人だ。親父もお袋も」
「でも日本人ならば黒髪だろう?」
栗毛の青年はじっと彼へ目を注いだ。
ヴォーリズにはその注視の意味が分からなかった。何か変なことを云っただろうか?
「懐かしくてね。無性に」
相手が黙ったままなので言葉を重ねた。
「僕はデンバー出身なんだが、来日してからこっち西洋人に会っていなくてね。母国語ともご無沙汰だし、食べ物も住まいも、服も帽子も靴も---靴は下駄だし---それに周囲は総じて黒髪だろう。『神の御前に万人は平等』とはいえ、こうも一人だけ違うとね---」
青年は気が変わったのか、風呂敷包みを置いて椅子へ腰をおろした。
「あんた宣教師だろう」
「い、いや」
ヴォーリズは手を振った。?違うよ。志はあるけれど」
「いっそ村へ来たらどうだ」
「え?」
「黒髪でない者を見たいなら、俺の村ほどうってつけな場所はない」
「君の村?」
ヴォーリズは問い返した。?この辺にそんな村があるのか?」
「ああ」
「ああって………」
「松崎港へ上がって徒歩にて一刻」
「船路かい?しかし---みんな日本語を話すんだろう?僕はこれから軽井沢へ行くんだが、そんなような所なのかい?軽井沢はあちこちから宣教師や駐在員が集まって、一大外人村を形成しているんだぜ。米国、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア---」
青年は笑った。?負けてないぜ。俺の村も」
「本当に?」
「来るか?」
「いいけれど---まだ日本語がよく………」
「依田の爺さんに会わせてやる。依田庄の主人で博学だぜ」
包みを掴んで立ち上がり、?どうする」
「どうするって---宿は?」
「乞うさ。依田庄に」
ヴォーリズは応じかね、青年を見つめた。
「………南蛮寺もあるんだぜ。嘘じゃない」
青年は繰り返した。「南蛮寺---キリスト教会だ」
心臓を掴まれた気がした。「キリスト教会---?」
「来るなら早く」
「そんな---まさかそんなはず---だれか伝道者がいるのか?」
「来るなら勘定を早く」

苛々と青年は云った。「あれに乗り遅れたら厄介だ。陽が落ちてから山歩きすることになる」
ヴォーリズの耳に、近海船の出航の間近いことを告げる銅鑼の音が、茶屋のざわめきを縫って聞こえてきた。
彼は意を決し、冷茶を飲み干して立ちあがった。

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