第8回伊豆文学賞 最優秀賞「月ヶ瀬」

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ページID1044415  更新日 2023年1月11日

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最優秀賞「月ヶ瀬」

萩 真沙子

私たち親子が慌ただしく東京を出て伊豆半島中ほどの修善寺駅に着いた時、あたりはもう暮れかかっていた。山に囲まれた駅周辺の景色いちめんが夕陽に照らされ、淡くオレンジ色に染まって見える。

急に思い立って、帰りの予定も考えず伊豆にやって来た。四歳になったばかりの智也の手を引き、大きな旅行バッグをもう一方の肩に掛け、おまけに私は妊婦の身だ。

到着した観光客と家路を急ぐ地元の通勤客で、夕方の駅構内はひどく混雑していた。人込みをよけながら改札を通過して駅前広場に出ると、バス発着ロータリーのいつもの位置に、ちょうど始発の東海バスが入ってくるところだった。

「ともちゃん、今度はあの黄色いバスに乗るのよ」
「やったー。おかあさん、はやくー」

乗物好きの息子に引かれて、転ばぬよう用心しながら少し急いだ。行き先は?湯ヶ島温泉」とある。

二人並んで席に着くと、間もなくバスは満員となり出発した。伊豆半島を縦断する下田街道を更に南へ……。母の待つ田舎まではもう少し……、あと十五分ほどか。この分なら暗くならない内に無事着けそうだ。さすがに疲れを感じた。思わずお腹に手を当てる。……中からかすかな合図があった。もう、七か月目に入っている。

バスは狩野川の清流を左手に見ながら、川沿いを上流に向かう。川岸に点々と見える人影は、鮎を釣る人たちだ。以前「狩野川台風」で破壊され、長く荒れていた河川敷も、今はもう緑の草花が生い茂り、爪あとを修復していた。川を挟んで両側に広がる田んぼの稲も穂を付けて、そろそろ刈り入れ時か。中伊豆の見慣れた田園風景が初秋の夕焼けに包まれ、美しく映えていた。

智也に付き合って、車窓の移り変わりに熱中している内に、いつの間にか、見覚えのある山々が四方に迫ってきていた。はるか前方に青っぽく見えてきた山。あれは天城山。目的地月ヶ瀬が近付いてきた。

私が子供の頃、九歳まで暮らした狩野川ほとりの小さな村、月ヶ瀬。……幼い時代を十年近く過ごした田舎なのだから、「ふるさと」と言ってもよいはずなのに、そう言うには何故か抵抗があった。

「ともちゃん、もうすぐ、おばあちゃまの家に着くわよ」
「ねー、おとうさんは来ないの?」
「あのね。いねばあちゃんのお病気がとても悪いから、それで、おかあさんお手伝いに行くのよ。おとうさんはお仕事があるから来られないの」
「おばあちゃま、びょうき?」
「おばあちゃまじゃなくて、おおおばあちゃんの方よ。月ヶ瀬のいんきょに住んでるいねばあちゃん。覚えてるでしょ?」

智也の曾祖母、私にとっての祖母の家は月ヶ瀬のバス停から少し山側に入り、森のように樹木の繁る神社の前にあった。父の実家である。父の家というより、また母の家というより、私には?いねばあちゃんの家」という言い方が当たっていた。

明治の中頃この家の一人娘として生まれた祖母の名はいねと言った。乗物が嫌いだったこともあり、およそ百年の歳月を一日たりと遠出することなくここで暮らしたという。私の祖父・伝之助を婿に迎え、一粒種の私の父を大切に育て上げ、戦後しばらく私たち一家とも共に暮らし、晩年は一人留守を守り、……この古い農家を一世紀に渡り、ぬしのように守り続けた人だ。

十年前、公務員だった父が停年になり東京で長い役人生活を終えた時、祖母はもう九十に近かった。一人では広すぎるこの家で、最愛の一人息子の帰郷のみを楽しみに気丈にがんばってきたが、誰が考えても限界だった。その年から、嫁である母はこちらに移ってきている。

母がここに住むのは二度目だった。かつて、どうにも馴染めず、脱出するように後にした家だ。……十五年を経て、母は再び夫の故郷へ、姑のもとへ戻ってきた。

父の方はそのまま東京に残り、新設民間企業のやとわれ社長を引き受けることになった。祖母はどれほどがっかりしたことか。

父の再就職を強く望んだのは父本人より、むしろ母の方だったという。
「伊豆は私が守りますから、望まれたお仕事をなさいませ」

それはいかにも、志を好む母らしい発言だったが、同時に、この地を激しく嫌っていた母を思うと、意外でもあった。

父は迷ったようだ。本当は、父には、引退して老後を田舎でのんびり過ごすような生活も合っていたのかもしれない。

しかし、父は新しい仕事への挑戦を選んだ。思えば、父の人生の攻撃的決断の要所要所は、母の意思によって決まってきたと言って過言ではない。

この時も、父と母と祖母、三人はいったいどんな話し合いをしたのだろう。

それから十年、古い確執を秘めた嫁と姑は、どちらも週末の父の帰りを待ちながら、二人きりで共に暮らし、共に老いていた。あの頃とは時代も変わり、そして二人の力関係も長い年月を経て変化しているようだった。

この度、身重の私が幼い息子を連れ伊豆にやってきたのには、わけがあった。

昨晩、東京のわが家に伊豆の母から電話があった。

「おばあちゃん、いよいよかも……。百歳まであと一年だけど……、もちそうもないわ」
「でも、今まで、何回も危篤だって大騒ぎになったけど大丈夫だったじゃない」
「そうね。そう……強い人だからね」

数日前から、また、伊豆の祖母が眠り続けたまま起きないという。心身共に非常に頑強な、かくしゃくとした人だったが、やはり年には勝てず、三年ほど前からほとんど寝たきりになった。これといった病名がなく、祖母の方も入院を嫌うので、母は期限のない自宅介護を延々と続けていた。
「おとうさま、会社を休んでばかりいられないから、しばらく伊豆から日帰りで通いますって。だから、そちらには寄らないから」

父は、会社からほど近いわが家によく立ち寄って、智也と遊んでくれる。
「わかったわ」
「ねえ、あさちゃん」
「え」
「……もちろん、意識が戻れば一番なんだけど。でも、もしかしたら、……あしたかもしれないのよね」
「そんな……」
「その時がこわいの。……一人じゃこわい」

私は、とっさに伊豆行きを決めていた。母の役に立ちたいと思うなら、この時をおいて他にない。
「私でよかったら、行くわ。あしたすぐに」

母は、子連れ妊婦の申し出を断わらなかった。五人兄弟の末っ子で勝手気ままだった私が、心底、母の望みに沿いたいと願ったのは、生まれて初めてのことだったかもしれない。智也を生んでから、私は母に対してやっと人並みの優しい気持を持ち始めていた。

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