第4回伊豆文学賞 入賞作品のあらまし

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ページID1044449  更新日 2023年1月11日

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最優秀賞

『海の光』 島永 嘉子

の太介が逝き、3年経ったある日、娘の鮎子が五歳の秀介を網代に住む私に預けにくる。

鮎子は、川中と離婚し、仕事は順調で勤めている会社の吉田社長が結婚したいといってくれるが、好きな人が他にいるという。奔放な生活を懲りずに繰り返す鮎子に私は憤りを感じるが、結局は受け入れてしまう。太介は鮎子に厳しく、鮎子の不幸な性向に危惧を抱き、それが自分の血にもあるのだと話したことがあった。

太介の死に打ちのめされていた私は自宅で書道教室をやりながら、感じやすい秀介を育てる忙しいが張り合いのある日を送る。鮎子から、再婚するが秀介を引き取れないと知らせのあった日、14歳の秀介は私に、「おばあちゃんが悪いんだ」と言葉を投げつける。

優秀賞

『姫沙羅』 西原 健次

河津のアトリエで像を彫る俊鑑はいまなお自身が彫刻家か、仏師か見定めができていなかった。妻のシェラーはかつて米国の医科大の大学院生だった。旅行先の上海で、ふたりは知り合い結ばれた。彼女には学業よりも愛を優先したという経緯があった。

シェラーが世界的な臨床スポーツ医学の権威者と出会い、念願だったスポーツ・アドバイザーの道に進みはじめた。俊鑑は、指導を受ける男性とシェラーとの関係をよからぬ方に考えてしまい、嫉妬に苦しむ。彫刻の迷いとも重なり、彼は放浪の旅にでた。

伊豆の寒村で、地震の山津波で犠牲となった一家の霊を静める像を頼まれた。シェラーが訪ねてきた。像のモデルとなった妻に輝きを見つけたとき、彼は迷いから抜け出られた。

『ボットル落とし屋の六さん』 前田 健太郎

節子は伊豆長岡温泉の『ボットル落とし屋』に生まれた。父の名は六助。江戸っ子でその歯切れのいい啖呵と度胸と腕っ節は長岡で知らぬ者がない。だが六助はひどい酒乱だった。

兄はヤクザの道に入り命を落とし、節子は駆け落ちのあげ句、騙されて人生を誤ってしまう。その後節子は40を過ぎてようやく平穏な生活を手に入れるが、最愛の娘は互いに理解し合えぬまま節子の元を去って行った。そして傷心の節子は15年ぶりに故郷の長岡を目指す。結局家族の誰も思う通りの人生を歩むことはできなかった。

が、しかし...。「思い通りの人生なんて、人生じゃねえやな」あの父ならば、きっとそう言うだろう。そんなことを節子はふっと思うのであった。

佳作

『東浦往還』(小説) 漆畑 稔

文政3年(1820年)の秋。

江戸から、「活鯛」を送るようにとの話が伊豆にもたらされた。とりわけ、駿河湾で揚がる鯛が喜ばれ、箱根越えや田中越えで荷出しすることになった。

これには、馬士と呼ばれる熟練した運び手が必要で、各村々から大勢駆り出された。

三福村の平三もその一人で、それまで請負っていた天城山御用炭の荷出しを断り、活鯛の荷出しに加わった。静浦口野村の塩久津湊から、東海岸の網代湊まではおよそ6里半(26km)の道程だが、途中の多賀道は、思わぬ難所であった。

山伏峠を下って間もなく、土砂崩れが起きた。このため、活鯛の到着時刻が危うくなったが、馬士たちの懸命な復旧作業により、何とか日の出前の出帆に間に合った。

『やまゆりの花に託して』 夏崎 涼

昭和20年夏、空襲の続く東京を離れて、療養の為伊東に帰った太田正雄は、死を予感し、思い出の伊東の街を逍遙しながら、自らの来し方を振り返る。正雄は医学博士として確固たる地位を築き、また作家木下杢太郎として文壇に名を成した。だが正雄は、貧極まろうともなお文芸に従うか、衣食足りるを優先し余業として文芸を嗜むかを悩み、家人に強いられるまま、唯々諾々と医師への道を選んだ、後ろめたさに苦しみ続けた。その後ろめたさに激しく迫った、石川啄木、森鴎外、芥川龍之介ら、文士たちの壮絶な生き様を思い起こし、正雄は自らの内に未消化のまま残った文学への情熱を、残された少ない日々のうちに燃やし尽くさんと、思いを馳せる。

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