第4回伊豆文学賞 佳作「やまゆりの花に託して」

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ページID1044453  更新日 2023年1月11日

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佳作「やまゆりの花に託して」

夏崎 涼

やまゆりの花を描いている。鶴のように痩せ細った手で、無心に描いている。先のことは、考えぬ。すべてはこれを描き上げてからのことだ。

動かぬ手ももどかしく、今は、ただひたすらに、やまゆりの花を描く。

人には死期がわかるものなのか、と、このところ正雄は思うようになっている。

東京は二月からこちら、連日といってもよい空襲で、三月には本郷の大学周辺も火に包まれた。正雄の皮膚科研究室は免れたが、裏の看護婦寄宿舎や歯科なども焼け落ちた。

だから、というわけではない。

少し疼痛がして、正雄は胃辺に手を当てた。

六月の初め頃から自覚する胃の痛みは、一時は眠れぬ程だった。自分でも触診してみたが、とくに腫瘍状のものを、判然と確かめるには至らなかった。けれども、少し注意と、あるいは覚悟が必要か、とも思われた。

とはいえ、胃痛の症状で寿命を悟った、というのでもない。

あれやこれやで、少し気弱になってもいるのだろうか、なぜかここしばらく、むやみに昔日のことが次々と胸に去来してならない。そのたびに、心残りを思うのだ。ああ、僕は、自らの思いをついに遂げずに終わった。為さんとしたことを為さなかった、と。

そのせいか、ついこの五月に太田の実家を訪ねたばかりなのに、近頃また郷里の伊東に思いを馳せることが多くなった。六月十二日に大学の柿沼昊作教授の内科で診てもらったら、とくに心配する程の影はないとのことで、バリウムによる腹部レントゲン写真を指でさし示しながら、
「やはりこの辺り、だいぶ荒れてるようですね。まあ、びらん性のものでしょう」

そう言って柿沼昊作は、背もたれに体をあずけて回転椅子をこちらに向けた。
「少しお疲れなのでしょう、太田先生。このところ、東京も連日空襲で、胃には良い環境とは言えませんし。どうです、しばらくご実家に帰られて、静養なさっては」

そんな柿沼教授の言葉に好機を得て、一週間も待たずに正雄はひとり伊東にやって来た。

夏がようやく盛りを迎えようとしている。早朝。伊東の街はまだ眠りから覚めていない。

しばらく立ち止まって胃の辺りをさするうちに、やがて痛みは無くなった。伊東に来てから、やはり調子は良いようだ。

正雄は、雪駄履きの足で地面を踏みしめるようにゆっくりと、再び歩き始めた。麻のズボンに白いシャツを袖まくりにして、腰に手ぬぐいをぶら下げている。左手には横罫の入った事務用箋と4Bの鉛筆を二本クリップで留めた、小さな画板を持っている。散歩の際には欠かさず持ち歩くようにしている写生のためのものである。一昨年から始めた草花の写生が、日課になった。伊東に着いた一九日の午後に実家の裏庭でさっそくスケッチした「雪の下」を含めて、この四日間のうちにも、九点ほどを描いた。描きためた絵は、もう八百点ほどになり、「百花譜」と名付けて、いずれ画集にするつもりである。正雄は、空いている右手で、帰ってから伸び放題の無精ひげを撫でた。

明治四十年、正雄は与謝野寛の主宰する新詩社同人に加わった。正雄の文芸活動の始まりだった。この夏、正雄は与謝野寛に率いられて、北原白秋、平野万里、吉井勇とともに、「五足の靴」と称して九州に遊んだ。長崎、天草、島原を巡って異国情緒に浸り、正雄は猛然と詩情の湧き出る感覚に襲われた。ああ、遠く離れた他郷の旅の非日常にあっては、詩とはかくも容易く生まれ出るものか。かつて、水彩を学び、絵に親しんだ正雄は、やがて文学に傾倒するようになって、いつしか文学と絵画的世界の融合を夢想するようになっていた。綾なす色彩を、光を、影を、言葉に変え、情感を注ぎ込み、幻想の世界をつくり出す。人は幻想の世界にたゆたい、しばしロマンティックな情調に酔いしれる。現実を離れ、日常から解放された、ロマンと幻想の不可思議国の創造。これぞ文学と絵画美術の融合、まさに至高の芸術ではないか。

「五足の靴」の異国情緒の体験は、やがて正雄のなかでまだ見ぬ欧羅巴文化への憧憬と結びつき、エグゾティシズムとして形をなした。そのころ雑誌「明星」に詩を寄稿していた画家石井柏亭を通じて、多くの青年美術家と交流し、同好の士を得た正雄は、吉井や白秋ら新詩社同人とも語らって、ガス燈に照らし出される赤煉瓦の洋風カフェに入り浸るようになった。コーヒーが香り、煙草をくゆらせ、チョコレエトを飲み、瑠璃色のグラスにシェリーを注ぎ、葡萄色の酒に酔い、詩作やスケッチに時を忘れた。やがてそれは、南蛮趣味とよばれる、自然主義に対抗したある種の文芸運動のごとき様相を呈した。セーヌの流れに見立てた隅田川沿いの洋風レストランを会場に、正雄たちは、同じ南蛮趣味に同調する、多くの文人が集う、クラブを企画した。正雄は、その集まりを、感性のおもむくまま自由に山野を駆けめぐるギリシアの半獣の神パーンになぞらえて、「パンの会」と名付け、会の醸し出すエグゾティシズムに心酔した。正雄たちの活動は、もはや新詩社の枠には収まりきれず、正雄は白秋らとともに新詩社を脱退、与謝野寛・晶子夫妻や上田敏、森鴎外らを顧問格として、新しい文芸活動の拠点とすべく、雑誌「スバル」を立ち上げた。「パンの会」は、回を重ねるごとに活況を呈し、そうそうたるメンバーが顔を揃えるようになった。

だが、「パンの会」が盛り上がりを見せる一方で、正雄のなかに、次第に「パンの会」への違和感が生まれ始めていた。

「パンの会」に集まったのは、作家であり、詩人であり、画家であり、またそれを志す気鋭の新人たちであった。正雄は、下戸で、洋酒の味はわからなかったが、そうした文士たちが醸し出す南蛮趣味の雰囲気に酩酊した。しかし、会が終わって一人になると、何か後ろめたさのようなものに、正雄は襲われるようになった。「パンの会」に集うのは、芸術を生きる糧としている人たちだ。その中にあって、自分はいったい、何ものだというのか。美術や文芸などとはなんの関わりもない、一介の医科学生に過ぎぬ。詩だの戯曲だのといっても、所詮は、素人芸ではないか。異国情緒だ、幻想だ、と騒いでみても、夢醒めれば、また医科学生の日常が待っている。

そんな正雄の憂鬱を、知らず、白秋らは、それを正雄の潔癖と称して笑い飛ばした。太田、飲め飲め。一度、反吐がでるほど、飲んで見ろ。世界が、変わるぞ。君は真面目すぎるんだよ、太田。デカダンに沈んで見ろ。怖いか。それでは幻想・耽美の世界など書けぬよ。そんな冷やかしに強い不満を感じながら、正雄は反駁できなかった。文学を道と定めぬ後ろめたさが、気を萎えさせた。医学など、我が本意ではない。家族が敷いたレールのうえに、唯々諾々と従ったに過ぎぬ。今、文芸において、為すべき事が見えている。天の声がする、万事を捨てて文芸のことに従え、と。そうすれば、後ろめたさを振り捨て、真の文学の徒となれる。だが、踏み切れなかった。

秘かに、打算があった。実家からの仕送りを止められる。今仕送りを止められれば、文学どころではなくなる。食えてこその文学である。この、くだらない、信じられないくらい臆病な打算が、正雄の心の底にあった。だから、「パンの会」も、「スバル」のことも、実家に知られることを極度に恐れた。ために正雄は、「五足の靴」の詩作以来、筆名に身を隠すようになった。文芸の集まりでも、筆名でよばれることを望んだ。好んでいたわけではない。正雄にとって筆名は、家人からの隠れ蓑に過ぎなかった。正雄は筆名を、終生嫌った。筆名は、接するたびに、後ろめたさを思い起こさせたからである。正雄はその後ろめたさの奥にある臆病な打算を蛇蝎の如く嫌いながら、抜け出すことが出来ずにいる自分を恥じ、その心の内を周囲に固く秘した。

だが、この正雄の打算を、見抜いたものがいた。「スバル」同人、石川啄木である。

この春北海道から上京し、新詩社同人となっていた啄木を知ったのは、明治四十一年十月、森鴎外の私邸観潮楼で催された歌会の席上であった。その後、「スバル」立ち上げに中心的に加わった啄木と創刊準備のために交わるうちに、その朴訥とした人柄と文学への真摯な姿勢に惹かれて、正雄は啄木の下宿を、足繁く訪ねるようになった。東京の文壇にまだ疎い啄木を相手に、正雄は南蛮趣味を披瀝し、エグゾティシズムを語った。啄木もまた、この都会的な、近代の知的青年の語る不可思議国の世界に新鮮な感動を覚え、目を輝かせて聞き入った。「パンの会」にも同行した。終生の、文学の友とさえ思い、少なからず影響も受けた。しかし、やがて啄木の心は、正雄から離れていった。啄木は、正雄の語る文学の世界と、あまりにかけ離れたその生き方に、激しく反発したのである。

明治四十二年一月、年が明けて漸く松も取れた、どんよりした曇り空の冬の一日。夕刻、千駄ヶ谷の与謝野邸の玄関に、正雄と啄木、そして北原白秋の、三人の人影があった。
「先生、与謝野先生、お邪魔に上がりました」と正雄がさかんに訪ないを入れてもいっこうに返事がないのを、啄木が制して、
「裏にまわってみようじゃないか」
と、裏庭に面した小座敷に勝手にあがりこんだ。白秋が何度かよばわって、掻巻きに着膨れた主の鉄幹先生が、ようやく寝ぼけ眼であらわれた。風邪をこじらせてしまってな、と、ひどい鼻声で言って、それでも、
「正月の酒がある。まあ、ゆっくりやっていけ」
と、銘々に茶碗の冷や酒をふるまった。だが、すこぶる具合が悪いらしく、幾らもたたないうちに、少し横になる、晶子は今、子供らと湯に出たところだ、時間はかかるかもしれんが、おっつけ帰るだろう、すまんが、それまでゆっくりやっててくれ、と言いおいて、引っ込んでしまった。

若い者ばかり三人、しばらくは静かに飲んでいたが、そのうち正雄と白秋が、昼飯の時の議論の続きをやりだした。酔うほどに、声高になった。
「太田の詩は、素晴らしい。光と影の綾なす異郷の世界は、印象派の絵のごとく」

白秋は、殊更おどけたように言う。
「君の詩を読むたびに、僕は思い出すよ。あのグラバー邸から見た、夕陽に照り返す長崎の港を、ね。あれぞ、まさに異国情調だ。パステルカラーの淡い光に包まれた幻想の不可思議国。立ち現れる幻の女。ああ、官能!」

白秋は、そこで茶碗の酒をぐびりとやった。
「ところが、どうだ、きみというやつは。潔癖。謹直。作品のなかでは、あれほど官能を追い、耽美的たらんとするきみが、普段はまったく美や官能の世界への陶酔などとは無縁なのだからね」

そう、思わんか、と、啄木を振り返る。啄木は、黙っていた。正雄は苦り切っている。
「聡明にして理知的。太田はおおよそ文学、芸術などとはほど遠い質を備えている。なのに作品は、ああも官能的だ。つまり、だ」

白秋があごに手をやった。目の辺りが赤い。
「きみの文学は、あますぎるんだ。大あまだよ。幻想を通り越して、空想だ。なにやら空々しくなってしまう」
「僕は、そうは思わんね」

正雄はムキになった。
「官能やエロス、情調の世界は、客体化して、初めて描ける。自ら欲望のままに流れて、美の世界など、描けるものか」
「だめ、だめ。そりゃあ理屈だ。きみのは説得力がなさすぎる」

また茶碗酒を呷って、白秋は続けた。
「乱れろ、太田。女を抱け、酒を飲め、酩酊してみろ。そうすれば、きみの書くものはもっとおもしろくなるよ」
「そんなものは、似非自然主義者の戯言だ」

正雄は抵抗した。
「きみらは、いまだに自然主義の旧弊にとらわれている。人生を、日常を、事細かに文にして何の文学か。そもパンの会は、スバルは、古い自然主義との決別たらんとしたのではなかったか」
白秋が何か言おうとするのを制するように、啄木が静かに口を開いた。
「僕は人生や日常を、文になどしていない。僕にとっては、文芸のことこそ、日常であり、人生そのものなんだ」

啄木は、正雄を正面からじっと見つめた。
「僕はスバルに懸けている。僕の文学活動の、たった一つの拠り所だからだ。パンの会などと、一緒にしないで欲しい」
「一緒にしないで欲しい、とは、どういう意味だ」

正雄は、鼻白んだ。
「太田に連れられて、パンの会には僕も何度か顔を出させて貰ったが、僕にはあれが、何のことかさっぱりわからなかった」
「何を言う。いまさら説明するまでもなかろう。文士や美術家のサロンだよ。同じ情調を持つ芸術家が集まって、感性のおもむくままに語り合う。きみだって、初めて加わった時には、あれほど高揚してたじゃあないか」
「そうだね。否定はしない。だが、すぐに馬脚があらわれたよ。あれは、単なる酔っぱらいの集団だ」
「酔っぱらいの集団とは、聞き捨てならない。パンの会には、きみなど、足下にも及ばぬ文学者たちが顔を揃えているんだぞ」
「それそれ。きみのその大家主義が鼻につくんだ。きみがスバルの原稿を僕の所に持って来て、森鴎外先生に朱を入れて貰ったのなんのと、得意げに話すのを、僕がどんな気持ちで聞いているか考えたことはないのか。スバルの責任編集者は、僕なんだぜ」

下らない、と正雄は、吐き捨てた。
「まったく、きみは何にでも反感を持つ男だ。偏執的だね。会費が払えぬからと言って、パンの会に当たることはなかろう」

啄木がさっと頭を振り上げ、正雄を睨みつけた。おいおい、言って良いことと悪いことがあるぞ、と、白秋がなだめにかかったが、啄木の口調は、かえって冷え冷えと落ち着いていた。
「なら、僕も言わせて貰おう。確かに僕はパンの会の会費で、きみには借りがある。だが、きみはその金を、どうやって稼いだんだ。きみの詩が売れたか?稿料が入ったか?そうではあるまい。実家からの仕送りじゃあないか。医学を学ぶための金を、きみは横領しているに過ぎない」

正雄の色白の顔に、朱がさした。啄木は、なおもたたみかけた。
「きみはなぜ文学の道に進まないんだ。本当に医者になりたいのか?ならば、なぜ詩など書いているんだ。要は、こういうことだろう。食い足りて、満ち足りて、暇つぶしに集まって酔眼朦朧、興が乗れば、詩など一節。だが、医師への道を捨てて、文芸のことに尽くすとなれば、そうは行かぬ。きみが文学の道を選ばないのは、飢えが怖いからなのさ」

返す言葉を失って、正雄は沈黙した。しばらく、だれも口を開かなかった。やがて、肩で息をしていた啄木の背中が丸くなった。
「すまん。少し言葉が過ぎたようだ」

そう呟いてから、啄木は正雄の方を向いた。
「太田。きみはまったく多才の人だ。医学を学んで学者を志し、詩人たらんとし、小説を著し、戯曲を書き、さらに画業に優れている。どれも一流だ。たいした才能だよ。僕などとても及ばない。だがね、きみの書く物は、胸に伝わってこない。魂がないからだ。所詮、余業なんだよ」
呵々と大笑して、白秋が口を挟む。
「太田、啄木は嫉妬してるのさ。きみの才能に」
「いや、そうじゃない。惜しんでるんだ」
と、啄木は真顔で続ける。
「才能を、惜しんでるんだよ。放たれんとして放たれかねている、その才能を」

正雄は身じろぎもしなかった。啄木の言葉が、正雄の心に巣くう後ろめたさを抉りだしていた。抗弁できなかった。啄木は極貧に沈み、そのなかで文学への情熱を燃やそうとしている。僕は、医師をめざし、衣食足りて、なお文学を業とせんとしている。文学とは、純粋なものだ、手垢にまみれぬ趣味で良い、と居直ろうともした。だが、だめだった。自分の文学は、余業に過ぎぬ。啄木を見よ。あの頬骨の出た、痩せさらばえた面差しを見よ。あのぎらつく、何かに飢えたような、まるで自分を敵ではないと言い放っているかのような、あの目の光を見よ。

ほどなく与謝野邸を辞した。湿気を含んだぬるい風が髪をなぶる、妙になま暖かい夜だった。軽い酔いの勢いで、四谷の天麩羅屋に、三人で繰り出した。珍しく、正雄が酔った。創作、思想、芸術をしきりに語った。

白秋と四谷で別れて、電車で啄木と二人になった。啄木は春日町で電車を降りた。互いに、何も語らなかった。

明治四十五年四月、啄木は極貧のなかに病没した。ちょうどその頃、正雄は東京帝国大学医学部の皮膚科にあって、いよいよ医師への第一歩を踏み出そうとしていた。

伊東の朝の空気の中で、正雄は啄木の死を思い返している。

啄木は、僕の後ろめたさを見抜いていた。僕の打算を許さなかった。彼は終生、貧を貫くことで、僕を断罪したのかも知れぬ。そうだとすれば、そのもくろみは成功した。啄木よ、僕は、あの後ろめたさに、今も苦しんでいる。

きのうは、昼前と夕方、二度も風呂をつかったら湯疲れをして、夕食後すぐに床についた。空襲警報もあったのかなかったのか、ぐっすり眠って、今朝は随分早く目が覚めた。家人はまだ眠っていたが、兄嫁だけが起きていて、散歩ですかと、台所から声をかけてくれたのに、松月院まで行ってきます、と答えて家を出た。しかし、表の松原大通りに出てから少し気が変わり、正雄は松月院とは反対方向に折れた。伊東の街を、もう一度ゆっくり歩いておきたいと思ったからである。

ほどなく、伊東の温泉街を流れる松川のほとりに出た。橋のたもとに立って山の方に目をやった。松川は山に向かってゆったりと左へ曲がり込んでいる。手前はがっしりした石垣で護岸された岸沿いに温泉旅館が建ち並び、対岸は昭和の初め頃に、河畔遊覧道に整えられていて、川端の柳の枝が、川面に触れんばかりに垂れ下がっている。正雄は橋の真ん中で立ち止まると、欄干に手を置いて、上流を見上げた。松川は、昔日と変わらず、豊かな水をたたえてゆっくり流れている。

子供の頃は、鮎や川エビが良く捕れた。鮎の季節には、川一杯に人が出た。川エビは、麻疹によく効く、などといわれて、珍重されたものだ。正雄は、しばし瞑目した。

明治三十九年。正雄、二十二歳。一高の卒業を間近にした正雄は、伊東の実家の、一階奥の六畳間、次姉きんの前で、正座して、俯いている。頭の上から、きんの凛とした声がひびく。
「正雄さんは、何を考えておいでか」

まず、きんは叱責した。医学部ではなく、ドイツ文学科へ進みたい。思い悩んだ挙げ句、正雄は文学への志を家人にうち明けた。きんは、そのことを言っている。
「太田の家からの仕送りが、何のためか、おわかりでしょう。いいですか、正雄さん。生きていく、ということはね、生やさしいことではないの。文学、けっこう。でもね、まず、きちんと生計をたてること。富むこと。そちらが先ですよ」

顔をお上げなさい、と、きんは膝を詰めた。
「芸術は、そもそも何のためにあるのですか。人間の精神に働いて、心を動かし、感動を与える技なのでしょう。いうなれば、人を、精神の面から幸福にする手段なのでしょう。だけど、富無くして、人は幸せですか」

拝金主義である。とても承服できぬ、と正雄は思っている。が、言えない。思いを伝えかねて、ただ、また俯いた。
「芸術をなすにも、富は必要でしょう。生活に不安で、良いものができましょうか。考えてご覧なさい。太田の家が仕送りをしているのは、何のおためか。医学の勉強をするためですよ。もし仮に、良いですか、仮にですよ、正雄さん。仕送りが途切れたら、それでもあなた、文学を、おやりか」

恫喝だ、と思った。医学を捨てよう、というなら、仕送りをとめる、といっている。ああ、かまわぬさ。僕は生き甲斐を見つけた。もう、迷わぬ。僕は文士としての道を選ぶ。さもなくば僕は、僕の感性は、行き場をなくして、真っ二つに引き裂かれてしまう。正雄は、そう心のなかで思いながら、一方で怯えている自分を意識しないではいられなかった。二階の自室にもどり、窓辺に腰掛けて、夜の海を呆然と眺め、漁り火が滲んで見えるのを自覚しながら、しきりに考えていたのもそのことだった。仕送りを止められたら、どうしよう。仕送りを絶たれてなお、自分は、文学を志せるのだろうか。よう、わかりました、肝に銘じます、と、最後に正雄はきんに言った。そのとき心にあった、暮らせることが先決だ、文学だってそれからだ、という自分の打算を、正雄は悔やんだ。

正雄は橋を渡りきると、緩いのぼり坂の河畔遊覧道を少し歩いて、柳の木陰に佇んだ。微風が頬を撫で、柳の枝が川面に揺れている。正雄は柳の根方の草むらに目を凝らした。えのころ。垂れた穂が、子犬の尾のようで犬の子、また、穂でつつくと子猫がじゃれるので、猫じゃらし。以前にスケッチがある。へくそかずら。これは名前がおもしろい。一糎くらいの、かわいらしい五弁の白い花を咲かせるが、全体に悪臭がする。だから、屁糞蔓。それから…、はて、これは野いばらだろうか。正雄は草むらにしゃがみ込んだ。茎の棘を確かめ、葉を撫で、花に芳香があった。葉に光沢があるから、確か、照り葉野いばら、というやつだ。正雄は手頃な石を見つけて腰を下ろすと、画板の事務用箋を膝に広げて、鉛筆を手にとった。それから、野いばらを暫く眺め、やがて用箋に鉛筆を走らせ始めた。力強い線で、野いばらの姿を素早く写し取っていく。時折手を休め、色合いや葉の様子を記憶に刻み込むように観察し、また鉛筆をとる。戻ったら、水彩絵の具で仕上げるつもりである。しばらく時を忘れた。今の正雄にとって、至福の時間である。

手早く写し取ったスケッチを、少し遠目にして、傍らの野いばらに一瞥をくれ、用箋の隅に、昭和二十年六月二十四日 と日付を入れた。それから、少し考える風にしばらく眺め、また鉛筆をとって てりはのいばら 伊東 と書き込んだ。

正雄は川の上流方を見上げた。山に薄い雲がかかっていて、頂上付近は見えなかった。このまま遊覧道を上ってみようかとも思ったが、涼しいうちに松月院にも寄りたかったし、今の自分には、そんなには歩けない。正雄は引き返して海へ出た。海までは、すぐである。

正雄は慎重に堤防を越え、足取りを確かめるように、波打ち際に近づくと、しばらく立ち止まって海を眺めた。薄曇り。微風。空は静かで、水平線に目を凝らしても、機影は認められなかった。数日前には、未明に半鐘が鳴り、さらにサイレンとともに、空襲警報発令、と呼び歩く声がして、家人がみな起き出したこともあったが、明かりを消して細目に開けた雨戸越しに見た街の様子に、特段のことは無かった。次の日、聞けば静岡で大空襲があり、弐萬二千戸程に被害が出た由、伊東の空は、幸い免れているようである。

朝靄が漸く晴れようとしている。沖合すぐのところを、漁船が横切っていく。幼い頃から、見慣れた、伊東の海の風景である。真正面に、ふたこぶ駱駝がうずくまったような形をした手石島が、手に取れるほどの近くに浮かんでいる。地の人が呼び慣う駱駝島とは、よく言ったものだ。其の左手、浜の真ん中あたりの沖合に、平たく横に広がった初島が見える。以前は、陽光に樹々の緑が照り映える夏の初島を、其の姿を指輪に見立てて、エメラルドの夢の初島、などと言ったりしたが、戦争からこちら、初島は、伊東湾で座礁した軍艦のように見えた。

初島を右前方に見ながら、正雄は波打ち際に沿って、ゆっくり浜を歩いた。足の裏でぎゅっと踏みしめられる砂の感触が心地よい。

薄まった靄の合間から、湾外の彼方に突き出た宇佐見やその奥の真鶴の岬の突端がくっきりと姿を現し、さらに向こうの大磯、茅ヶ崎辺りの霞んだ風景も見渡せた。正雄はかつて請われて、雑誌に「伊豆伊東」と題した雑文を寄せたことがある。そこに、「伊東は小生の生まれた所で、もし大地に乳房といふものがあるとしたら、小生に取ってはまさにそれです」と書いた。そのふるさとの穏やかな海が、眼前に広がっている。

正雄にとって、この伊豆伊東の海の如く、正雄を大きく包み込み、見守ってくれた、終生の師があった。

森鴎外である。

明治四十一年九月二十四日、森鴎外は自室にひとりの青年を迎えていた。太田正雄。東大医科の学生で、幾度か文学の集まりで言葉を交わした覚えがある。なかなか切れの良い物言いようをする、礼儀正しい青年だという印象がある。以前から森家と昵懇にしている平野万里にともなわれてやって来た太田の用向きは、医学部の進級試験のことだった。高橋順太郎教授の薬物学の試験日を一日間違えた、という。このままでは卒業が遅れるので、高橋先生に再試験を請いたいが、ついては森先生からお口添えを願えないか、と太田は頭を下げた。要件のおおよそを平野から聞いていた鴎外は、幾つか問いただしてから、よかろう、引き受けた、と言った。見届けて、平野は所用があると言って席をたったが、鴎外は正雄を引き留めた。文学について、少しばかり話してみたくなった。鴎外はこの青年に、少なからず、興味を覚えている。

鴎外は数日前、今、正雄が座っている同じ場所に、意外な客を迎えていた。はるばる神戸から上京したという建築技師河合浩蔵なる人物と、その妻女である。河合とは初対面で、しかも驚いたことに、折り入ってお話がございます、と言ったのは、妻女の方だった。
「お初にお目もじ致します。河合きんでございます」

そう名乗って、妻女は、医科学生太田正雄の姉だと言った。
「実は愚弟の進級試験の事でございます」
と、きんは単刀直入に切り出した。
「ああ、そのことなら平野万里君から聞いていますよ。何でも試験の日を間違えたとか」

さようでございますと、きんは恐縮している。
「たしか、高橋教授でしたな。高橋順太郎君なら、よく知っている。ただ…」

鴎外は言葉を濁して、苦笑を浮かべた。高橋は、堅い男だ。しかも彼は学者だが、鴎外は軍勤務が長い。このとき鴎外は、対露戦役から凱旋してまもなくで、陸軍省医務局長の地位にあった。陸軍省医務局長と言えば、軍医としては極官だが、大学の教官とは、畑が違う。高橋は恐縮するだろうが、自分の頼みを簡単に肯んじるとは思えなかった。
「ただ、おわかりだとは思うが、むろん、お約束は出来ませんよ」

いやいや、それはもう、もとより承知を致しております、と今度は河合が言って、二人でひたすら恐れ入っている。
「しかし、このあいだ平野君から連絡があって、何でも明後日あたりに、太田君を連れて、やって来るようなことを言っていましたよ。この件は、そのときの話だと思っていたが…」

鴎外は首を傾げた。河合夫妻の来訪を受けて、鴎外はそのことを理解できないでいる。平野は、太田正雄の姉夫婦が来るような話はしていなかったし、この件はすでに平野から内意を告げられている。余人が改めて挨拶に来たからといって、さして事情が変わることもなかろう。だが、きんは、
「そのことなんでございます」
と、ようやく話の糸口が掴めたように、身を乗り出した。
「あの子は、正雄は、ほんとうに頑固で、融通の利かない、小難しい性分で、人様に随分とご迷惑もお掛けしているようでございます。ただ、その分、妙に几帳面なところがございまして、そういう性分からすると、あの子が試験の日を間違える、というのが、私にはどうも腑に落ちないのでございます」

きんは、少し躊躇うように間を置き、それから打ち明け話をするように声を落とした。
「あの子は、試験を、受けたくなかったのではないか、と、私は思うのです」

確信犯だと、言っているのである。
「正雄が、詩人や芸術家の方々の集まりに出入りしたり、絵や文章を書いたりしているのは承知しております。あの子は以前、医師の道を捨てて、文学を志したいと、申したことがございます。その折は、私やあの子の兄たちで、よく言って聞かせ、説得したのでございますが、あの子の気持ちのなかでは、文学への志がますます強くなっているのではないかと、懸念しているのでございます」

漸く話が見えた、と鴎外は思った。太田正雄は、文学の志を捨てきれず、家人説得のために、実力行使に出たのではないか。きんは、そう言っている。そして、きんのもっとも心配するのは、正雄自身が、この件で鴎外との面会を望んだことで、
「森先生は、優れた医学博士で、高名な文学者でもいらっしゃいます。正雄は、その森先生からお墨付きのお言葉を頂くことを期待しているのではないかと思うのでございます」

万事を捨てて、文学の事に従え。太田正雄は、鴎外にそう言ってもらえることを期待しているのだ、という。きんは、どうか正雄の将来を思って、医者の道を断念することなきよう、森先生から充分に説諭していただけまいか、と言った。

鴎外は腕組みをといて口ひげに手をやり、しばし黙考した。太田正雄という男に、すでに興味がわいている。
「委細、承知致しました」

鴎外の、短いが力のこもった返答に、河合夫妻はそれ以上言葉を重ねず、何度も謝意を述べ、程なく森家を辞去した。鴎外の快諾にほっとしたのか、去り際に、河合は、身内をこんな風に言うのもいかがかと思いますが、とことわりながら、
「正雄君は、稀にみる好青年です。多才であらゆる面に優れていながら、謙虚で、その才をひけらかすことがありません。他人の気持ちを慮る、実にやさしい面もある。実は、私には、死に別れた先妻との間に娘が一人おるのですが、正雄君に貰ってもらおうと思っているのですよ」
と話した。

そして、太田正雄は今、鴎外の書斎の、大きな文机の前で、背筋を伸ばし、軽く握った手を、揃えた膝の上に置いてかしこまっている。平野が辞去してからは、文学談義に終始した。正雄の物静かな物腰と柔和な眼差しのなかに隠された、文学への激しい情熱を、鴎外は巧みに刺激した。正雄は、もはや自らに巣くう葛藤を、隠そうとはしなかった。
「僕には、医学を本業としながら、余業としての文学に情熱を燃やす、などという邪道は、出来ません。芸術は、人の心に訴え、これを刺激し、高揚させる技だ、という人がいる。否。文学とは技ではない、魂だ。すなわち情調です。余業に魂など、あり得ない」

太田はこうも言った。
「医学と文学。二つにして交わることなし。一つの個にして、この二つを追えば、その個は、必然として分裂し、崩壊せざるを得ず」

私を負かそうとしている、と鴎外は思った。まるで自らの抱える矛盾が、実態をなして眼前にあるかのごとく、挑みかかってきている。鴎外は、正雄の純粋な人柄にいつのまにか好感を覚えていた。鴎外は穏やかな声で応えた。
「私は医者である。だが、医学を以て対する人には、あれは文士だ、ともに医学を談ずるに足らぬ、と言われる。また、私は軍人である。だが、官事を以て対する人からは、文士ごときにとても重事は託せぬ、と言われる。それらは、私の学問・官事への従事に対する評価の結果ではなく、見当はずれの、ただの悪口だ。だが、私の小説、私の翻訳詩に対する評価や批判は、作品自体の質による。本業か否か、など、些事だ」
「しかし、まず衣食足りるを先んずるは、打算ではありませんか。打算は、純粋を蝕むもの。文学、芸術こそ、まさに純粋の極み、とすれば、打算は最大の敵です」

正雄の文芸への純粋な思いが、熱く伝わってくる。だが、思い詰め過ぎている。視野を広く持てれば、と鴎外は思う。だが、今はこのままでよい。苦しむのがよい。苦しみながら、次々と古い皮を脱ぎ捨てて、太田は、医者として、文士として、成長していくであろう。数日前に、同じ場所に座って、後事を懇願した河合きんの姿が、鴎外の頭をよぎった。きんの見込みは、違っているようである。太田は、わざと試験をはずすような計算の働く男ではない。ああ、できるなら、我を見て手本とせよ。だが今は、何を言っても聞くまい。
「太田。自然界には、脱皮、というのがある。蛇は、時至れば、皮を脱ぐ。段々に脱いでは、大きく、新しくなる。人間も、脱皮していくことが必要なのだ」

正雄は、腕組みし、しばし黙考した。腕組みをといて、言った。
「ならば、先生。もし、かの蛇が両頭であるとすれば、医学と文学という両頭の蛇であるとすれば、脱皮は如何なりましょうか」
聞いて、鴎外は大笑した。そのまま、明確な答は示さなかった。

以来、正雄は、繁く鴎外邸を訪ねるようになり、鴎外を師と仰いで、心酔した。鴎外も正雄の純粋さを愛した。鴎外の影響か、鴎外の夫人しげもまた、鴎外邸に出入りする多士のなかで、正雄に特に親しみ、頼りにもした。

明治天皇崩御から一と月余りたった秋口、朝から森邸を訪れていた正雄が帰ったあと、茶を下げに来たしげは、そのまま、鴎外が書き物をしている書斎に座り込んだ。
「太田さんは、今日はお早いお帰りですね」
「うむ。昼前に、大学に寄らねばならぬそうだ」

この年正雄は、鴎外の薦めに従って、東大医学部皮膚科教室の土肥慶蔵教授の門下に入っている。
「太田さんは、良い人ね」
と、しげは言った。
「凛として、礼儀正しく、いつも落ち着いていらして」
「うむ」
と、鴎外は小さく唸った。生返事をしている。
「それでいてお話ぶりは、文士らしく、何かこう、内に秘めた情熱のようなものが伝わっくるかのようで」
「うむ」
「理知的で、でも柔和なお顔立ちに、暖かみを感じますわね」
「うむ」

しげは正雄の茶碗を盆に片付け、鴎外の茶を新しいものと取り替えた。
「あなた。早いもので、茉莉も、このお正月で、十歳になりましたよ。お嫁の心配をせねばならないのも、あっという間かも知れませんね」
「うむ」
「あなた。出来ることなら、太田さんに、茉莉を貰っていただけないでしょうか」

鴎外は顔を上げた。今度は頷かなかった。しげが文机の前に盆を持ったまま座って、鴎外を見ている。口元に薄い笑みを含んでいるが、まんざら、気紛れでもなさそうである。明治三六年一月に生まれた長女茉莉は、数年前に妹が生まれてから、すっかり大人びて、前は母親に叱られるほどよく遊びに来ていた鴎外の書斎にも、滅多に姿を見せなくなっていた。鴎外は万年筆をおくと、しげの方に向き直った。暫く黙って、しげを見ていた。

―死に別れた先妻との間の娘を、正雄君に娶せようかと思っているのですよ― あの折、帰り際に、義兄河合浩蔵はこんなことを言っていた。

やがて、鴎外は、静かに口を開いた。
「太田は、好青年だ。文芸家としても良い物を書くが、優秀な医学生でもある。あれは、良い医者になるだろう。職は安定している。茉莉も太田に嫁げば、食うには困らぬだろう」しかし、と、鴎外は言った。
「太田に、茉莉を貰ってくれと私が言えば、太田は嫌とは言うまい。嫌とはいわぬだけに、いや、だからこそ、太田には、やれない。もし太田が茉莉と結婚して、そのために自らの生涯を犠牲にするようなことがあったら、太田に何と言って申し開きをするか。だから、それは、だめだ」

そのことは、忘れよ、と、鴎外は言った。生涯、鴎外は口にしなかった。しげも、鴎外の言いつけを守った。正雄は、むろんこのことを、知らない。

大正六年八月二十六日、正雄は次姉きんの夫河合浩蔵の、先妻との間の娘正子と結婚した。

手石島をすっかり背中にまわし、右前方にあった初島が右手すぐに見えるところまで来ると、正雄は浜から上がり、道を渡って山に向かった。この辺り、少し坂道を登ったところに、松月院がある。道は幾らも行かないうちに鉄道の線路をくぐり、山にぶつかって、急勾配になったが、寺まではすぐで、さほど汗もかかずに、正雄は山門をくぐった。

松月院のたたずまいは、変わらなかった。正雄は、実家の墓と本堂にお参りを済ませると、本堂の左手に重なるように立つ松の木の傍らに佇んだ。そこからは、伊東の街が、眼下に見渡せた。海は左手に見えた。昔ここにあった、茅葺きの鐘楼から望む海の風景を、よくスケッチしたものだ。その鐘楼は昭和初年に取り壊され、今は白々と更地が広がっているばかりで、木株を削ってこしらえた腰掛けが数脚、ぽつんと取り残されている。その一つに、正雄はゆっくりと腰を下ろした。

短く刈った下草に降りた露の、冷んやりした感触を素足に感じながら、正雄は呆然と遠い海の彼方に視線をさまよわせ、心はまた時を遡っていく。正雄は、溜息をついた。晩年に臨んで、このところ、次々と胸によみがえる昔日の思い出のなかに、いつも消しがたく現れる面影がある。

芥川龍之介との初対面は、芥川の話では、雑誌「新思潮」の復刊にあたり、芥川と菊池寛が、正雄にその表紙画を依頼したときだという。その初対面を、正雄は覚えていない。

正雄が芥川を明確に意識するのは、大正五年の秋、満鉄が経営する南満医学堂皮膚科部長に就任が決まったときからだった。文壇との疎遠を覚悟した正雄は、渡満に先立ち、別れを惜しむかのように、小説、戯曲を立て続けに発表していた。しかし、文壇は、同じ年の「新思潮」に発表された「鼻」が夏目漱石の激賞を受けて、二十四才の若さで一躍寵児となった芥川を中心に動き始めていた。新聞雑誌は、正雄が北原白秋や美術家石井柏亭等と起こした南蛮趣味の文芸運動を初期の稚拙な段階と断じ、芥川に至ってようやく真髄に迫ろうとしている、と評した。赴任地の奉天への途次、朝鮮の京城で新聞記者の取材を受けた正雄は、心ならずも、芥川を賞賛した。「羅生門」も「鼻」も知らなかった。ああ、僕も文壇で、彼と時を同じくしていれば…、と正雄は思った。思いとは逆に、以来数年、正雄は内心の葛藤を押さえ込み、医学の業に専念した。芥川のことも、意識から消えた。

大正十三年に正雄が帰国したとき、芥川はすでに文壇での地位を確固とし、小説の執筆を以て定収入とする、毎日新聞の嘱託正社員としての身分を手にしていた。生活のたつきか、それとも文芸か。そんな正雄の、長い間内心に燻り続けた葛藤が、薄っぺらに思えた。
自分の文芸への思いと苦しみなど、この男にとっては、まるで無縁のものであるのだろう。これが、才能というものか。正雄は、その才能に嫉妬した。

東北大学医学部教授として仙台に住むようになった二年目の梅雨の頃、芥川龍之介は、東北講演旅行の途中だと言って、ぶらりと正雄の大学の研究室に現れた。昨夜来の雨が依然止まず、雲が低く垂込めた暗い日であった。
「突然お邪魔を致しました」
と、芥川は殊勝に頭を下げた。
「いや、なに、かまわんさ。今日は、午後からはこれといって、何もないから、良い都合だったよ。で、こちらにはいつから」
「今度、改造社から現代日本文学全集が出るので、頼まれて、里見?さんと宣伝の講演に、この辺りをまわっているんですよ」

おとといは、青森でした、と芥川は言った。どんな話をしているのかね、と問うと、いやあ、と手をふり、まあ、夏目漱石先生のことなどを少しばかり、と照れた。
「いま、毎日新聞にいるそうだね」
「ええ。まあ、座付の戯作者のようなものですね。原稿料ではなく、給料なんです。首に紐を付けて、書いている」

やや自嘲気味に言うのを、正雄は意外に感じて、芥川の様子をもういちど改めた。広い額にまっすぐに通った鼻筋、引き締まった顎。知性を湛えた冷たい目の表情は、正雄の記憶に違わない。しかし、顔色青白く、記憶にあるより頬はいっそう痩け、引き結んだ口元に刻まれたしわに、疲れを感じさせた。
「実は今、九州の大学から、来ないか、という話があるんです」
「ほう」
「文科の教授なんですが、福岡に行かねばならんので、迷っているんです」

きみに、大学教授の地位は、不要だろう、という皮肉な感情が、正雄の心に湧き起こった。きみは文壇の寵児、漱石先生も絶賛した天才作家だ。何を迷うことがあろう。何年か前に、なんでも慶應義塾で教鞭をとる話があったそうじゃあないか。確か、きみはそれを蹴って、毎日新聞の嘱託社員を選んだ筈だ。つまり、文芸に専念するを、自らの人生に決めたのではなかったか。正雄は、そう心のなかで呟いた。一方で、教授と文学との両立は、簡単なことではないぞ。きみには、所詮、無理だ、とも思っていた。知らず、自分のこれまでの来し方を、芥川に重ねていた。僕の苦しみが、きみにわかるものか。しかし、正雄はなにも言葉にしなかった。ただ、福岡は、少々遠いね、と曖昧に応えて置いた。そのあと、あまり話は、はずまなかった。正雄は少し西洋文学史のことを芥川に尋ね、芥川は、このあと里見さんと別れて、一人で新潟で講演をやるんです、ポオの話をしようかと思っています、という風なことを言った。ほどなく、芥川は、辞した。正雄が、芥川龍之介と交わったのはこれが最後になった。

それから一と月半ほどのちの七月二十四日未明、芥川はベロナアル及びジアールの致死量を仰いで、自ら命を絶った。正雄は、新聞でこの報に接した。直後、新聞雑誌はさまざまに取り沙汰をした。正雄のところにも、取材の記者が来た。だが、わかる筈もなかった。
ただ、正雄は、芥川との仙台での面会を、しきりに思った。あのとき、芥川は、僕に何かを言いたかったのだろうか。「書く」ことへの不安から、逃れようとしていたのだろうか。大学の教授の職に、精神の安定を求めようとしたのだろうか。溢れんばかりの文学の才能を持ち、評価を得、文学を暮らしのたつきとし、啄木のように極貧にあえぐこともなく、まさに正雄が夢想し続けた文士としての理想像を、芥川は具現していたのではなかったか。正雄は、芥川への嫉妬を思った。長年の、葛藤を思った。また、珠玉の才が、文学に殉じた。芥川こそ、真に文芸をきわめんとしていたのではなかったか。身を粉にし骨を削って文を編んでいたのではなかったか。そうして、求められるままに売文の徒となるを、潔しとしなかったのではあるまいか。自分の、かなわぬ目標としていた、万事を捨て、ひたすら文芸のことに従うこと、とは、文を金銭に換えることに過ぎなかったのかも知れぬ。ああ、僕は、ただ文を「食らおう」としていたのか。 正雄は、芥川への嫉妬を、恥じた。そして自ら小説の筆を折って、芥川に殉じた。以来今日まで、一編の創作をも物さなかった。

僕は、長く生きた。そして、たくさんの人と、その死に会った。そのたびに、自分の弱さを自覚した。僕は、文学に専従することを、生涯、望み続けた。だが、現実には医学の道を選び、研究に専心した。一方で、文芸のことにも加わった。幾らかの作品も世に出し、名をも為した。文壇にも、自分を知らぬ者は、ない。

だが、それで、もう満足か、と、正雄は自問した。心残りが、ある。自分の文学とは、何なのかを、正雄はいまだ見出せずにいる。そのことを、今になって改めて、正雄は、強く意識している。僕は、啄木のように生きられなかった。芥川のようには生きられなかった。鴎外先生のように生きようとして、為さなかった。そうして、自分のなかに、文学が未消化のまま残った。もう、僕には幾らも残っていない、ならば、今をおいて、ほかにない。尽くしきれぬままに残った文学への情熱を、燃やし尽くすのは、今をおいてほかにない。

そのために、自分に何ができるだろう。

正雄は、また、芥川を思った。そして、立ち上がった。

自分を書こう、と正雄は思った。自分のこれまでの煩悶の人生を、二十年前、芥川の死に際して筆を折った、小説にしよう。そして、ともに生き、次々と文学に殉じた、文士たちの、壮絶な生き様に、捧げよう。

太田正雄を、小説にする。その思いつきに、正雄は、軽い興奮を覚えた。僕の、作家としての生涯の証である。未だ物したことのない、長編小説になるだろう。そして、僕の最後の作品になるだろう。

小説「太田正雄」。

いや、違う。僕の人生を書くのなら、これではいけない。僕には、文学という幻を見続けるために、これまで使い続けた筆名がある。家族を、そして自らをも欺くために、使い続けた筆名こそ、僕の葛藤の生涯にふさわしい。

小説「木下杢太郎」。

これを書かずには、死ねぬ。僕、木下杢太郎の、最後の作品だ。

小説の構想が、早くも杢太郎の頭のなかを駆けめぐり始めている。杢太郎は、無意識に、胃辺を庇うように右手で包み込み、ゆっくりと石段を、山門に向かって降りていった。

七月三日。杢太郎は、東大の柿沼内科に入院した。胃痛は波のように押し寄せ、また引き、それを繰り返した。病室に持ち込んだ一冊のノートに、時折、雑文をしたためた。長くは、ペンを持てなかった。小説のことを考えた。ふと、思い立って、芥川龍之介の全集を読み進めた。一週間ほどで、読み終えた。連日、検査。柿沼昊作は、慢性膵臓炎だろうと言った。

七月十七日夕刻、退院。体に力が入らない。

七月二十七日、杢太郎は、久しぶりに絵筆をとった。やまゆりの花である。「百花譜」の最後の作品になったその絵には、
「胃腸の痙攣疼痛なほ去らず、家居臥療。安田、比留間此花を持ちて来たり、後之を寫す。運勢たどたどし。」
と、記されている。

昭和二十年十月十五日未明、胃癌にて、医学博士太田正雄、作家木下杢太郎、永眠。

了。

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