第4回伊豆文学賞 佳作「東浦往還」

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ページID1044452  更新日 2023年1月11日

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佳作「東浦往還」

漆畑 稔

文政三年(一八二〇)の、十月も過ぎようとしていた。

その日は、朝からまるで嵐を思わせるような強い風が吹き続けて、木々の枯葉を撒き散らしていた。

豆州三福村の馬士平三は、湯ケ嶋村炭会所から請負った七駄(七俵)の天城山御用炭を、馬の背に付けて運んでいた。今月最後となる荷出しを済ませてしまえば、四、五日はゆっくり休めるとあって、綱を引く手もいつしか軽くなっていた。

熊坂村の山の根を通り、かにやの狭い板橋を渡って小室に入ると、開けた視界の中に城山が見えて来た。前日の雨で洗われた大岸壁が輝いている。南の裾に連なっている幾つもの山々は、あたかも、大きな鳥が羽根を広げているかの如く見える。その懐に抱かれるようにして、十戸ばかりの家が並んでいる。

右手には、ゆったりと流れる狩野川が見えて、山田川と合流するこの辺りでは、大きく渦を巻いて北流している。見慣れた景色ではあるが、簗漁が終わったこの時季になると、すっかり人影も絶えて、寂しささえ感じる。この先、狩野川に沿って城山下から神益へ向かう三津街道は、だらだらとした緩い坂道になっている。かすかではあるが、自分の村が見えるこの場所に立つと、平三は、懐かしさにも似たほっとした気持ちになる。

平三は、その手前にある地蔵の茶店で一息つくのが決まりであった。木陰に馬を止めると、地蔵に手を合わせてから、縁台でゆっくりと煙草をやるのだ。

今日の平三は、朝から浮き浮きしていた。それと言うのも、出掛けに女房のはるから、子供が出来たらしいと聞いていたからだ。

十七だったはると一緒になって六年、もうすぐ三十に手が届こうと言う平三にとっては、待ち兼ねていた嬉しい言葉だった。それは、はるにとっても同じだった。

平三の実家からは、子供はまだか、果てはもう出来ないのかと、さんざんな嫌味を言われていたはるであったが、そうした苦痛に絶えて来られたのも、平三の優しさがあったからこそだ。
─きっと地蔵さんの御利益に違いない。はるも、これからは辛い思いをしなくて済む─

地蔵を拝む平三の手には、思わず力が込められていた。

巨岩に、直に掘り込まれた親地蔵の回りには三百体もの小地蔵が並んで、道行く人々に優しく微笑みかけている。

いつの頃からか、小室の地蔵は子授けの地蔵だと言う評判が立って、平三も、ここを通るたび密かに念じていたのだ。
「いい事があったね、平さん…」

店を切り盛りしているばあさんが、名物の草団子を差し出しながら、平三に声を掛けて来た。
「ああ、そうともさ。ばあさん、俺もやっと人の親になれそうだよ」
「おやまあ、おめでたかね。あんたの顔を見て、何かあったなと思ったけど、そりゃあよございました。せいぜい、おかみさんを大事になさいまし…」
「ありがとうよ、この地蔵さんのお陰だよ。近えうちに、女房とお礼参りに来るからよ」「そりゃあいい。お地蔵さんにたんとお礼を言って下さいよ」

ひとしきり休んだ後、平三は再び馬を引いて三津浜へ向かった。

下田街道と宇佐美道の分岐点にある三福村は、口伊豆の要衝に位置している。古くから旅籠が軒を並べ、様々な物資の中継地として、結構な賑わいを見せていた。

仲田家は、南北朝以来の旧家で、代々三福村の名主を務めている。当主の庄右衛門は十八代目である。

温厚で人情味のある庄右衛門は、多くの村人から慕われている。だが、ひとたび仕事の話ともなれば厳しく、そのてきぱきとした差配振りは、誰もが一目置いていた。

平三は、良く磨かれた廊下を通って奥の座敷に案内された。それほど大きくもない床の間には、山水の掛け物が吊され、庭先の菊を挿した花入れが置かれている。質素ではあるが気が利いている。

慣れない場所に座らされた平三は、尻が落ち着かなかった。出された茶をせわしなく啜りながら庄右衛門を待った。

考えてみれば、普段、村中で庄右衛門を見掛けたにしても、せいぜい挨拶をする程度のものであったし、改まって話をする事などはほとんどなかったのだ。だから、今日庄右衛門の口からどんな話が出るにせよ、平三は彼なりに少し緊張していた。

ほどなく、庄右衛門が現れた。
「帰る早々済まなかったなあ。近所の小僧に言付けを頼んでおいたが、話が通じて良かったよ。いやあ、実はなあ、多田村の名主さんから、馬士を何人か廻してほしいって頼まれてな」
「多田村の名主さんから?」
「ああ…お前さんも知っての通り、馬士は江間村や原木村、それに山木村なんかに大勢いるんだが、旦那の話じゃあ、今月の始めから方々に声を掛けているが、なかなか思うように集まらなくて往生しているそうだ。どうも、山越えになる仕事は嫌がってやりたがらないし、増してや、今度の仕事は夜越しだからなおさらかも知れない」
「山越えなんてなあ、俺たち馬士にとっちゃあどおって事はねえですよ。まあ、夜越しってのが、確かに気になりますがねえ…」
「そうだろうともさ、ただでさえ、荷を付けて馬を動かすってのは大変な仕事だからなあ。だが、どうでもこれはやってもらいたいんだよ」

平三は、庄右衛門の真剣な顔を見ているうちに、今度の仕事は、よほど大事な荷出しに違いないと思った。
「旦那からの書状によれば、お上からお達しがあって、活鯛を江戸へ送るようになったそうだ。旦那は、お代官様から活鯛御用って言うのを仰せつかってな。そこで、急きょ田方郡の村々の馬士を集めて、荷出しを取り仕切る事になったそうだ」
「何です?その活鯛って言うやつは…」
「うむ、生きたままの鯛の事だよ。まあ、話はこうだ。近頃、江戸じゃあ近海物の鯛だ鮪なぞが随分と重宝がられているそうだ。だが、そうは言っても江戸湾辺りだけじゃあとても賄えないらしい。それに、不漁になった時を考えて、この伊豆から送り込む事になったんだ。特に、上物の活鯛は将軍様に納めるって言う話でな…」
「へえ!生きてる鯛を…将軍様にねえ。そいつはおもしれえ仕事だ。だが、どうやって江戸まで運ぶんです?」
「そこでだ平三、お前さんたち馬士の力が必要って訳だよ。活鯛を馬の背に付けて、夜のうちに口野から網代まで運んでもらいたいんだ。その先は船で江戸送りだ。どうだ、やってくれるか?」

平三は、すぐに返事が出来なかった。

第一に、請負っている仕事をどうするかだ。これまでずうっと仕事を貰っている炭会所に、いきなり断るなんて言う不義理は出来ない。今のままでも、そこそこの稼ぎになっているし、はると二人、食べて行くのに特別困っている訳ではない。それに、これまでの品物は炭であり、濡らしたり崩したりさえしなければ何とか良かったのだが、活鯛なんてもの、どうやったら無事に運べるのだろうか。平三は困惑した。

庄右衛門は話を進めた。
「この三福村で馬士と言えば、お前さんのほかに、仲町の伊佐次と下町の吉兵衛だけだ。昼間、二人とも家にいたんで話をしたんだが、どうも脈はなさそうだ。大変だとは思うが、いつも世話になってる旦那からの話だし、この村から一人も出さないんじゃあ格好がつかない。だから、是非お前さんに頼みたいんだよ。湯ケ嶋の炭会所の方へは、わしから急ぎの書状を出しておく。よく事情を説明しておくから案ずる事はない」

平三は、庄右衛門の言葉にそのまま押されそうになった。

平三は、その華奢な身体に似合わず、腕っぷしが強く、性根のすわった男である。庄右衛門は、それを見込んで平三に声を掛けたのだった。

他の仲間が、馬主から馬を借りて百姓仕事の合間に駄賃稼ぎをしているのに対して、平三の場合は、自分で馬を持ち荷出しを生業としているのだ。まして、庄右衛門に雇われているのではなかった。だから、断ろうと思えばそれは出来ない事ではなかった。しかし、新しい仕事への魅力もあった。

活鯛の荷となると不安はあるが、もう十年もの間、狩野口から三津浜まで荷出しをしている平三にしてみれば、山越えも夜越しもさほど大変なものではなく、何とかなるだろうとも考えた。
「お話は良く分かりました。ぜひやらして貰いてえと思います。ただ、帰って女房と相談してえんですが…」
「そうかい、それもそうだな。まあ、何としてもお前さんに引き受けてもらえれば、わしも旦那に顔向けが出来ると言うものだ。良く考えて、明日にでもいい返事をおくれ」
「へい、それじゃあ、あっしはこれで…」
「平三、何もそんなに慌てて帰る事もなかろう。家の者に飯の支度をさせているからゆっくりして行くがいい」
「せっかくのお言葉ですが、女房が待っているもんで…」
「何んだい平三、随分愛想無しだね。そりゃあ、女房の飯が一番いいに決まっているだろうが、まあいいじゃあないか。大した物もないが、お前さんに無理をお願いするわしの気持ちだから、食べて行っておくれ」

平三に、それ以上断る理由はなかった。

なにしろ腹が減っていた。それに、先程来台所の方からいい匂いが流れて来ており、平三の鼻をくすぐっていたのだ。
「そうですか、何だか申し訳ありません。それじゃあ、お言葉に甘えてご馳走なります」平三は、庄右衛門から進められるままに、酒肴まで受けてすっかりいい気分になった。

平三が家に戻ったのは、五ツ(午後八時)頃だった。早速、庄右衛門からの話をしたが、いやもおうもなかった。はるの方も心得たもので、平三から相談があるがと切り出して来る時には、既に大体が決っているのだった。「だけどお前さん、その仕事は夜越しって事だけど、何だかあたしゃあ心配だよ」

身重になったはるは、俄かに心細くなった。それだけではない。早朝に家を出た平三も、夕方になれば、当たり前のように帰って来た。それが、今度の仕事を受けるとなれば、これまでの生活とはまるっきり逆転してしまう。はるの言葉は、平三の身体を気遣っての事でもあった。
「なあに、夜道だってなんだって、俺にゃあ関係ねえさ。ちったあ寂しいかも知れねえが、おめえの事は、隣のばあさんに頼んでおくから心配する事はねえ…」

そう言い切ったものの、正直なところ平三も不安は隠せなかった。俯いたはるの顔をちらっと覗きながら、平三は天井を見上げた。「それでお前さん、もう名主さんに返事をしちまったのかい?」
「いや、まだだ。名主さんは炭会所に一筆書いてくれると言うが、俺は自分で断りを入れて来ようと思う。何せ、今日までこうやって飯を食べて来れたのも、炭会所から仕事を貰えたからだしな…」

その晩平三は、高ぶる気持ちを抑えられず、なかなか寝つかれないでいた。それは、久しぶりに飲んだ酒のせいばかりではなかった。

翌朝、平三は再び庄右衛門の家へ行った。庄右衛門は、庭先で落ち葉を掃き集めている所だった。
「お早うございます。旦那さん、昨夜は色々ご馳走になりまして…」
「なあに、礼なんかはいいよ。どうだい平三、いい返事を持って来てくれたかね」
「へえ、それが旦那さん、仕事はぜひやらして貰いてえんですが、その前に、湯ケ嶋へは自分が行って話をして来ようと思いますが、まずいでしょうかねえ…」
「いや、そんな事はないさ。真面目なお前さんだから、おそらくそう言うだろうと思ったよ。私にしたって、せっかくこれまでお前さんが築いて来た信用を、壊すような事はしたくない。この書状には、その辺の事を書いてあるから、これを持って行って来るがいい。お前さんも、よく話をしておいで」
「分かりました。じゃあ旦那さん、行って参ります」

九ツ半(午後一時)頃、平三は炭会所から戻った。庄右衛門の家に立ち寄り、事の次第を報告した。
「いやいや、ご苦労様だったね。どうだったね湯ケ嶋は…」
「それが…向こうじゃあっしにやめられちゃあ困るってんです。てっきり、承知してくれるだろうと思ってましたが」
「そうかい。それで、炭会所じゃあ何か言ってなかったかね」

平三は、もぞもぞしながら、
「へえ、その…条件がありまして、誰かあっしの代わりの馬士を出してくれって…」
「もっともな事だ。だが、どうしようかな、誰か湯ケ嶋に行ってくれる者はいないかな。昨日の伊佐次の話じゃあ、もうちっと稼げればいいがと言ってたが、今一度、伊佐次に当たってみようかね。話をするから、お前さんも来ておくれ」
「…名主ってのも、これでなかなか因果な商売でな、代官所からの話には逆らえないし、何とかしなくちゃあならない」

庄右衛門は、平三の前を急ぎ足で歩きながら、呟くように言った。

伊佐次は、年貢米の荷出しに出る所だった。「伊佐次、忙しい所済まないな。昨日の話とは違うんだが聞いてくれるかい」
「どうしたんです?平さんが一緒ってのも珍しいねえ」
「あの話だがな、平三にやって貰う事にしたよ。そこで、平三が抜けた後をあんたにどうかと思って来たんだよ。どうだろうね」
「へえ、この年貢米が終われば、春先まで仕事も暇になるし、何とかやれると思うがね」「そうかい、良かったよ。もしあんたに断られたらどうしようかと思ったよ。早いうちに話をつけるからな」
「伊佐次、申し訳けねえなあ。頼むよ」
「ああ…」

庄右衛門は満足した顔で二人を見た。

次の日、平三は馬を引いた。

庄右衛門から紹介状を受取り、口野村の彦兵衛の家に向かった。

半刻ばかり歩き、横山坂を下った南条村の渡し場の前まで来ると、宗光寺村の又七に出会った。流木に馬を繋いだまま、川原に座り込んでじっと川面を見詰めている。

又七は平三と同じ馬士仲間だが、家の仕事が空いた時に、主に浮橋や田原野辺りから降ろされる大根や椎茸などを請けて、四日町や口野などに運んでいる。六尺はあろうかと言うその身体と精悍な顔つきは、平三とは対照的である。

平三は、又七の浮かない顔に大体の察しがついた。
「どうしたね又さん、あんたも口野かい?」「ああ、先だって名主の長左衛門さんから話があってな。変われば変わったもんだよなあ。荷出しは、昔から狩野川の川下げか、津出しで西回りって決まってたもんだが。田中山を越えて行けば近い事は近いが、運び手にゃあ結構きつい仕事だぜ」

平三は、又七の言葉に頷いた。

それまで、たいていの荷物は口野の塩久津出しで、駿河湾を南下して行ったが、石廊崎辺りで度々座礁する心配があった。そのため、荷主たちは、安全で早い東浦出しを願っていたのだ。

又七の方は、今度の話はあまり乗り気ではなかった。父親が名主の長左衛門と幼なじみだからとか、村中の付き合いだと言うしがらみに逆らえず返事はしたが、出来れば、近場でのんびりとした仕事でいいと思っていた。だが、父親の手前もあって仕方なく来たのだという。
「おおい!乗るのか、乗らねえのか、早く決めてくれねえかなあ…」

二人を見ていた船守が、しびれを切らして叫んだ。
「うるせえ!ちっとくれえ待ってろ…」

又七は言い返した。
「まあまあ、そろそろ出かけるかね又さん」「気が進まねえが、行くとするか」

又七は、捨てぜりふを吐いた。

平三は、又七に先に船に乗るよう促した。しかし、又七はそれを平三に譲った。
「俺は後にする。昼までには着くから、おめえ先に行っててくれ」

この場は、下手に逆らわない方がいいと思い、又七の言葉に従った。

平三は、船守の指図通り、ゆっくり馬を引き入れて船に乗り込んだ。対岸までは僅かな距離であるが、久しぶりにのんびりとした気分になった。己の行く先を人の手に委ねる事で、こんなにも安らげるものなのだろうか。平三は不思議な感覚に捕らわれていた。

川の中ほど辺りで、すうっと心地好い風が通り過ぎて行った。船守は、飄々とした顔で竿を操っている。
「あんた、又七の知り合いかい?」

岸に残った又七の方を見て言った。
「まあ、ガキの頃から良く知っているが、普段は、てんでに仕事が違うんで、付き合いはあまりねえんだよ」
「そうかい。あの野郎は乱暴でいけねえ。それに、口のきき方を知らねえ。おめえさんが来るまで、一刻近くもああやっていたんだ。こっちが何を話掛けても、黙っていろだのうるせえの一点張りだ。他の客の手前、喧嘩する訳にもいかねえしなあ…」

平三とて、又七の性格は良く分かっていた。だが、ことさらそれを言う必要もなかった。平三に言うだけ言って気が済んだのか、少し穏やかになり、
「まあ、つまらねえ事を喋っちまったが、忘れてくんな」
「へえ、あっしゃあ気にしてませんから。だが親父さん、又さんは乱暴な所があるってのは承知していたが、以前は、あれほどじゃなかったと思うがね」
「ああ、それだが、又七は、つい先だって十年も連れ添った女房に逃げられてな…何でも、村の連中の話じゃあ、今始まった話でもねえが、奴の殴る蹴るにとうとう耐えられなくて、一人息子と実家に帰っちまったそうだ」
「そうだったのかね」
「まあ、いらいらする気持ちは分かるが、身から出た錆ってやつだな」

そう言ってしまえば、やはりそうかも知れないが、平三は又七に少し同情していた。

船は対岸に着いていた。
「親父さん、ありがとうよ。又さんの事はたのむよ」
「……まあ、気をつけて行きなよ」

又七は来るだろうか。平三は、又七のあの様子から少し不安になった。しかし、考えてみた所で仕方のない事だ。来るか来ないかは本人次第である。

船を降り堤を上がると、やがて古奈村の温泉場に入った。夏の間は閑散としていた湯治場も、この頃になると少しずつ客足も増えて、本の賑わいを取り戻していた。

新しく開かれた墹之上の間道を抜け、坂道を下ると珍野に出た。やがて、塩久津口の切り通しに差し掛かった。年貢米を積んだ馬が二頭、三頭と先を進んでいた。

ここは昼間でも鬱蒼と暗く、ひんやりと冷気が漂っている。両側の壁のそこここから山水が滲み出していて、夏であれば、顔を洗い乾いた喉を潤すには格好の場所だ。

彦兵衛の家は、口野村の北の入口にあった。沼津垣にぐるっと囲まれた広い屋敷の中には、大きな蔵が五つも並んでいる。

庭先では、大勢の使用人たちが忙しく動き回り、集まって来た荷物の仕分けに追われていた。

馬世話人であり、同時に魚荷物出口世話人でもある彦兵衛は、三浦一帯(静浦、内浦、西浦)では大きな勢力を持っている。

原木村を始め、北伊豆の各村々から返事のあった十七人の馬士が集まった。馬士たちは、二間続きの広い座敷に通された。
「皆よく来てくれた。多田村の名主さんから、お前さんたちの村名主さんに書状を出してお願いしたんだが、正直言って、こんなに来てくれるとは思わなかった。お陰で、来月からの荷出しが出来るよ。宗光寺村の又七さんが見えないようだが、誰か事情を知っている者はいないかね」
「あの…いいですかい?」
「ああ、お前さんは?」
「三福村の平三って言う者です。実は、又七さんとは南条の渡し場で一緒になったんですが、先に行くように言われたもんで、後の事は分かりません。追付け来るだろうと思いますが」
「そうかい、それなら待ってみようかね」

平三は、又七の顔を思い浮かべた。おそらくあの様子では来ないかも知れないと思った。気を取り直した彦兵衛は、馬士一人一人に顔を向けて話を続けた。
「さて、あんた方に頼みたいのは、既に名主さんの方から聞いているとは思うが、ここで揚がった活鯛を、馬に乗せて運んでもらう事だ。で、その道順だがこの絵図にある通りだ。まず、塩久津口の切り通しから江間に向かう。それで、谷戸から墹之上を通って南条の渡し場を越える。それから田中山に入ってくれ。網代湊には、日の出前までには必ず着くようにな」

そこまで話すと、彦兵衛は少し改まった表情になった。
「始めに言っておくが、この荷出しは、将軍様御用にも繋がるものであり、万が一でも不心得は許されない。あんた方は、それぞれ名主さんから推薦された人たちばかりだ。それを良く肝に命じてやってもらいたい。それだけの実入りはあるってもんだからね」

じっと聞入っていた馬士たちは、顔を見合わせざわつき始めた。彼らの中には、今までの駄賃よりいいと言う事だけを聞いて、軽い気持ちで来た者もいるだろう。

だから、
「親方さん、わしら名主さんからはそんな風に聞いていねえ…そう言う事なら、俺は辞めさせてもらいてえ」
「夜越しなんて仕事は、まっぴらだ、銭だけの問題じゃあねえ」
「網代なんて、そりゃあ無茶な話だ。おそらく、じきに死んじまうんじゃねえのかな」

などと、口々に言い出した。
「まあまあ、皆、待っておくれ。気持ちは分かるが、これはぜひやって貰いたんいだよ。今までとは違う荷出しだから、大変かも知れないがどうか頼みたい」

彦兵衛は、馬士たちを制するようにして話を続けた。
「とりあえず、来月五日から来年の三月までの期間だ」

彦兵衛は、一枚の紙を取り出した。
「荷出しをやってもらえる者は、この請負証文に署名してもらう。書状に書き添えてあったが、印判は持ってきたかな。ない者は爪印だ。今から回すから、順番に書いてくもらいたい」

しかし、その場ではお互いを気にしてか、署名する者はなかった。

これは、彦兵衛の誤算だった。仕方なく彦兵衛はこの話を承諾する者は、荷出し初日の昼までに来るようにと説明して話を終えた。

十一月五日の昼近く、彦兵衛の家には馬士たちが集まって来た。その数十一人。この前より六人少ない。

彦兵衛の目論見では、出来れば十二、三人はほしい所だった。しかし、もしそれ以上馬士が来ないとなれば、予定した数の活鯛は運べなくなる。彦兵衛は頭を抱えた。

荷造りの夕刻までに、なんとしてもあと一人か二人来てくれれば良いがと、祈るような気持ちだった。

鯛は、駿河湾ではほぼ一年中捕れるが、水温が低くなる秋から冬にかけての物は、身が締まっていてとびきり旨いと言われる。江戸へ運ぶには、この時季の丈夫な鯛が選ばれるのは当然と言えよう。

鯛はどのくらいの時間もつのだろうか。一度生け簀から揚げ外気に触れた物は、たちまち弱ってしまう。だから、一刻を争う仕事になる。

また、肝心の鯛を入れるには、どんな物が良いのか、彦兵衛は、桶と樽を持ち出し試行錯誤の末、三斗樽(約五十四リットル入り)が用意された。

それから毎晩、実際に活鯛を入れた樽を馬の背に付けて、口野から長井崎まで約一里の道を、使用人に運ばせて見た。

その結果、三往復(六里=二十四キロメートル)した所で、半分以上が死んだ。それも、三尾入れた方は二尾がだめだった。
「親方、やっぱりきついねえ」

馬を引いていた使用人が、彦兵衛の顔を覗き込んで言った。
「二尾がいいところかなあ」

網代までは、およそ六里半(二十六キロメートル)の道程である。よほど気を付けて運ばないと全滅しかねない。

今度の仕事は、彦兵衛にとってこれまでになく神経を使う荷出しであり、同時に、大博打になりかねないものだ。

しかし、その分馬士たちにしてみれば、働きによっては、大きな稼ぎになる事は間違いなかった。

駿河湾の向こうに日が沈んで、辺りはすっかり暗くなった。

馬の背の両側に樽が取り付けられ荷造りが始まった。それぞれの樽には、八分目ほどの海水が張られた。鯛を入れるのは、出発ぎりぎりの時まで待たなければならない。

平三が樽を付けていると、ようやく又七が現れた。
「来たかね又さん、親方が心配していたぜ。直ぐに顔を出した方がいい」
「ああ…」

又七は、父親に説得された挙句、観念して来たものだろうか。そんな詮索はともかく、又七が来た事でとりあえず平三はほっとした。彦兵衛の前で、又七は大きな身体を折り曲げ、ひたすら頭を下げている。
「…とにかく、お前さんが来てくれて良かったよ。これで、十二人になった。早速支度をしておくれ」
「へい、申し訳ありませんでした」

又七は、樽置き場に向かった。
「皆揃ったら、座敷に上がってくれ。御用の仕事だから酒はないが、料理は沢山ある。せいぜい食べておくれ」

広い座敷には、馬士たちの夕飯が用意されていた。

彦兵衛は、居並ぶ馬士たちの前に立った。「食べながらでいいから、聞いてくれ。いよいよ、これから大事な荷出しが始まる。南条村からは山道に入るが、田中山や多賀道は随分な難所だ。だが、隊列は崩さないように行ってもらいたい。前後の者は、よく気配りをしながら行くようにな。もう一つ、あそこは御林山になっているから、山火事などは絶対に出してはならない。提灯と蝋燭を使う事、松明を使う事は禁止する。これは、くれぐれも守ってくれ。お互い十分に気を付けてな。それから、食べ終わった者からこの証文に署名してもらいたい。五ツ半(午後九時)になったら鯛を入れるから、それまで、ゆっくりしてくれ。以上だ」

山越鯛荷物請負証文

一札之事
一今度我等共山越鯛荷物、当拾壱月五日より 来辛巳之三月五日迄請合申候処実正ニ 御座候、此荷物之儀山坂風雨ニ 不相構随分精出シ、田中山御林夜越ニ 附出シ、少茂 無遅滞 急度相勤可申候、若又馬ニ 間違等御座候ハ、馬手中間一連ニ 相働、番代いたし無間違御 荷物附送可申候、為後日連判致加仍如件

文政三年庚辰拾壱月
豆州原木村 文五郎 印
同村 半助 印
山木村 八兵衛 印
同村 弥左衛門 印
北江間村 惣右衛門 印
同村 彦右衛門 印
南江間村 重兵衛 印
同村 久右衛門 印
古奈村 三郎兵衛 印
同村 忠左衛門 印
宗光寺村 又七 印
三福村 平三 印
口野村馬世話人
魚荷物出口世話人
彦兵衛 印

多田村 幕府活鯛御用
善左衛門殿

宝暦九年(一七五九)に三島代官が廃止されて、伊豆の天領は韮山代官の支配になった。その管轄下におかれた田中山には、御林山九一二町五反歩余があった。

御林山には、御用木である松を始めとして、秣、刈敷、茅、薪などがあり、常に火事の危険にさらされていたため、通行に際しては、細心の注意が払われていた。

いよいよ、水揚げの時刻になった。

提灯を手にした彦兵衛が岸壁に立った。闇の中に明かりが見えた。目を凝らして船を確認すると、
「よーし!いいぞー」

彦兵衛は、船に向かって提灯を振りかざしながら叫んだ。それに答えて、船の方からも提灯が振られた。
「直ぐに入れられるよう、準備しておいてくれよ!」

彦兵衛は、馬士たちに声を掛けた。

船はゆっくり動きだし、静かに接岸された。鯛は、船底に設らえた生け簀の中から、素早く樽に移し替えなければならない。

すくい網を持つ使用人が、生け簀の上に立った。三百匁(約一キログラム)ほどの生きの良い物を選んだ。目当ての物が見つかると、すくい網で引き上げるのだが、いざ樽に入れる段になると、跳ねる鯛に慌てて、なかなか思うようにいかない。
「おいおい、大事な品物に傷を付けないよう、十分心してやっておくれよ…」

見兼ねた彦兵衛が、陸から檄を飛ばした。それでも、どうにかこうにか二尾ずつ樽に入れる事が出来て、素早く蓋がされた。

彦兵衛を始め、使用人たち全員が表に出て、道の両側に並んだ。
「どうか、網代まで元気に行ってくれるといいがね…さあ、それじゃあ皆、くれぐれも宜しく頼みましたよ」

彦兵衛の言葉を合図に、荷馬は次々に出発した。

荷は、十頭の馬で隊列を組んで運ぶのであるが、これとは別に、一頭は荷を付ける事なく、先馬としての役目があった。それは、彦兵衛から荷物駄数を記した書状を預かり、田中山の元村である中村の村役人へ届ける事だ。さらにもう一頭については、荷物の通過を見守ると同時に、万一途中で具合が悪くなった馬が出た場合には、いつでも交代が出来るよう、海水を張っただけの樽を積んで行くと言う役目が課せられた。

まず、原木村の文五郎が先馬として中村に向かい、十二人の馬士の中では最も大柄な又七は、荷を積んだ隊列の一番手に、また、小柄な平三は十番目にいた。さらに、古奈村の忠左衛門は、隊列を見守る最後尾に着く事になった。
「おおい平さん、俺がへばったら頼むぜ。後はあんたに任せるからなあ…」

前の方から、又七の太い声がした。
「いいともさあ…だが又さん、そんな事言わねえで頑張ってくんなよ」

長塚から珍野口に入ると、沿道に大勢の人だかりがあった。

活鯛の御用荷出しが通る、夜越しの行列が通る、と言う前代未聞の話を聞きつけた村人たちは、早いうちから待ち受けていたのだった。
「活鯛だなんて、江戸まで持つのかねえ」
「一刻も持てはいい所じゃあないかね。おそらく、田中山辺りで、だめになるんだろうなあ」

村人たちの声を尻目に、御用旗を立て先頭を行く又七は、ふんぞり返り得意げに歩いてみせた。

そんな又七の振舞いを見て、馬士たちの中には、
「面白くねえ野郎だ!いつかとっちめてやらなきゃあならねえ」
などと言う者が現れた。

彼らの言い分にも一理あった。先月末、彦兵衛の家で行われた顔合わせの時、又七はとうとう姿を見せなかった。出発の今日になって、しかも間際にようやく来た。

それも、皆に詫びを入れるどころか、ろくに挨拶もしないままだ。これでは、何を言われても仕方がない。

そうした又七の、ふてぶてしい態度は、馬士たちの癇に触ったようで、江間村の馬士に至っては、南条の渡し場に着いた所で、川に引きずり込んでやるなどと、ぶっそうな事を言っている。

又七の性分をよく知っている平三は、何か起きなければ良いがと、内心はらはらしていた。

渡し場では、既に来ていた文五郎が、南条村の名主や組頭などと共に待っていた。
─いやな奴が前にいるぜ…─

船守は、提灯の明かりに浮かんだ又七の顔を見るなり、不機嫌になった。
「あっしゃあ、あの男が苦手でして…」

名主にそっと耳打ちした。
「うむ?何の事だか私には分からぬが、お前さんはここで、連中を無事に渡してくれさえすればそれでいいんだ。余計な事は考えない方がいい。若し、お前さんの言ってる馬士が何か仕出かしたら、直ちに村役人からお代官に知らせるから、案ずる事はない」
「へい、分かりました」

丸顔で小太りの名主は、一見おっとりとした風体ではあるが、その言葉や身のこなしには、落着きと貫禄が感じられた。

それは、年齢から来ていると言う事だけではなく、むしろ、生来彼に備わっているものであろう。

最後の馬士が到着するのを見届けると、名主は船尾の前に回った。
「皆、ここを渡ったら横山下の茶店前で待っていてくれ。そこで小休止だ」

荷を付けた馬を船に乗せるのは、決して容易な事ではない。船守は、足場板を船から川原に渡すと、又七に声を掛けた。
「さあ、乗ってもいいぞ!ゆっくりな…」「よしきた、じゃあ一番乗りと洒落るか」

又七は、調子づいて綱を引いた。しかし、馬は乗ろうとはしなかった。
「おい、早く乗らねえか!」

いくら又七が綱を引いても、馬はびくともしなかった。
「どうしたい又七、その馬はお前と同じで、仕事がいやなんじゃあねえのか?」

後ろの方がらヤジが飛んできた。
「誰でえ!もういっぺん言ってみろ、ただじゃあおかねえぞ…」

言い争う又七たちに向かって、
「やめなさい!今はそんな事をしている場合じゃあないんだよ。この馬でなくても、他の馬が先になってもいいから早くしておくれ。又七とか言ったね、あんたも少し落ち着いてな。仮にもお前さんたちは、御用の荷出しを請けた人だ。めったな事で間違いなど起こさないでもらいたい」

名主は、厳しい口調で言った。

その言葉に、意気まいていた又七もさすがにおとなしくなった。成り行き次第では、身体を張ってでも又七を止めなければと思っていた平三も、とりあえずその場は治まったので安堵した。

そんなこんなで、多少手間どったがどうにか全員が渡り終えた。何よりほっとしたのは、船守であった事は言うまでもない。

横山下から急坂となり、浅間山の北側を抜けて田中山へ向かう道がある。

中村と境をなしているこの道は、既に平安時代から開かれた古道であり、南条道とも網代道とも呼ばれ、東浦への重要な幹線となっている。

韮山代官の管轄下となって後、古奈村や南条村の人々は、その普請のため度々使役に出ている。とりわけ、今回の活鯛御用荷出しに際しては、多くが駆り出され整備が行われた。文五郎は、女塚の番小屋で待機している御林山守や山廻りに、荷馬通行の先触れのため急ぎ馬を走らせた。一方、馬士たちはそれぞれの荷の中を確かめると、足腰を揉んだり叩いたりしながら山道に備えた。

名主の合図で、再び隊列が動き始めた。しばらくは、雑木ばかりが続いていた。やがて、平坦な道に出たかと思うと、南側の丘陵一帯に、手入れの行き届いた松林が見えて来た。既に御林に入っているらしい。

通行する荷馬の気配を感じ取ったのか、梅木沢から不動原の暗い谷間に、山犬の声が響いている。

それまで、順調に進んでいたが、女塚まであと二町(約二百十八m)と言う所で、中程を歩いていた山木村の馬士が荷崩れを起こした。樽を縛っていた荒縄が解けて、樽が落ちそうになっている。心配した、同じ村の馬士が駆け寄り、荷を直そうとした。

隊列の足が止まった。これを見た又七は、男の顔を見るなり、
「おめえは、さっき俺にいちゃもんを付けた野郎だな。なんだい!もうちっとこじっかり荷を縛っておけよなあ」
「何だと!てめえに言われる覚えはねえ。黙ってろ」

言い返すと、
「何をいいやがる。そんな事をしてたら、荷が駄目になっちまうぜ」

さっきの一件が、まだもやもやと尾を引いている又七は、ここぞとばかりに男を責めた。「又さん、やめなよ!」

平三は、このままではまずいと思った。
「平三!口出ししねえでくれ」

又七は、もう歯止めが効かなくなっていた。「いいや又さん、今度ばかりは俺が許さねえ。どうでも絡むんなら、俺が相手になるぜ」

平三の鋭い言葉に又七は驚いた。おとなしいばかりだと思っていた平三が、まさかそんな調子で言うとは信じられなかったからだ。平三に同調した他の馬士たちは、一斉に又七を取り囲んだ。引っ込みがつかなくなった又七は、もう自棄を起こしていた。

又七は、男に殴り掛かろうとしたが、その手を平三に止められた。
「又さん、いい加減にしろよ!」

平三の力は強かった。
「そんなにこの仕事が嫌なら、今直ぐにでも山を降りた方がいい」

その言葉に、又七は逆らわず振り上げた手を降ろした。

一行は、何事もなかったかのように、再び歩き始めた。

しかし、騒ぎは番小屋に聞こえていた。

最初に気が付いたのは、田京村から来ている山廻りだった。
「御林山守様、おそらく馬士の連中だと思いますが…」
「ううむ、何をやっているんだ…」

続けて何かを言おうとしたが口を噤んだ。御林山守と言う自分の立場からすれば、とにかく連中が争い事や火事などを起こさずに、一刻も早くこの田中山を抜けてくれさえすれば良いと思っていた。だから、
「わしは何も聞かなかったぞ、何も見なかったぞ…それで良いのだな!」

と言って目配せをした。
「へい、心得ております」

二人は、顔を見合わせて返事をした。

今度の揉め事の火種も、おそらく又七だろうと、文五郎は推量していた。

御林山守は、四つ辻で一行を止めると、型通り馬数と荷駄数を確認したものの、取り立てて吟味などはしなかった。

文五郎は、
「皆、鯛の様子を見ておいてくれ」

馬士たちに、樽の蓋を開けるよう指示した。「よしよし、大丈夫だ!」

どの鯛も無事であった。

浮橋村を過ぎて山伏峠を越える頃、行く者を阻むかのように、冷たい霧が覆って来た。これからしばらくの間は、くねくねと七曲の道が続く。よほどしっかり注意して歩かないと、馬もろとも深い谷底へ真っ逆さまである。
「おおい!皆、十分に気を付けるんだぞ」文五郎は、馬士たちに声を掛けた。

この荷出しのため、浮橋村や多賀村では、幾日も前から大勢が出て道普請をした。しかし、ここらの山は脆く崩れやすいため、すぐにまた荒れてしまい、村人は、ほとほと手を焼いていた。これまでも、度々崩落事故が起きており、旅人にとっては、最も危険な場所として恐れられた難所であった。

それは、峠を下り始めて十町(約一・一キロメートル)ばかり進んだ時であった。

突然、ガラガラッと音がしたかと思うと、一抱えもある大きな石と共に、大量の土砂が崩れ落ちて来た。
「危ない!」

文五郎の声に、後ろを歩く馬士たちは一瞬たじろいだ。しかし、その直後、又七は土砂に叩きのめされた。
「ううーっ!」

呻き声を上げて倒れた。
「又さん、大丈夫かあー」

平三は、すぐさま又七に駆け寄った。
「ううむ…平さんか、俺なら大丈夫だ。それより、馬の方は…荷はどうなった」

平三の手を借り、又七は何とか起き上がる事が出来たが、右肩を負傷している。馬の方は、又七が瞬間的に手綱を離したため具合良く前方へ走り抜け、かろうじて難を逃れた。この時、樽は大きく揺さぶられ、中の水がこぼれたが、幸い鯛はなんともなかった。

しかし、崩れた土砂によって道は塞がれてしまい、一行は身動きがとれなくなった。

平三は、文五郎と二人で又七を草むらまで運んで休ませると、
「おおい!皆、こっちへ来てくれ。早くこの土砂を取り除かなきゃあだめだ」

後方にいる馬士たちを呼んだ。

だが、こんな山の中に道具などあるはずもなく、まず、大小の石を路肩に寄せた。その内の何人かは、立木の枝を使って土砂を掻き集めた。

しばらくそんな事を続けていたが、一向に捗らなかった。

土砂と山側にある僅かな隙間を通り抜けて後方に行った平三は、後ろにいた古奈村の馬士に、
「おめえさんの馬は、足場板を背負っているじゃあえか。これを使わねえ手はねえ。何で気がつかなかったのかなあ…」
「そうだよ平さん、すっかり忘れていたよ。これにしよう」

二人は、足場板を降ろして枝と組合せると綱で結んだ。ここからは、馬の力を借りなければならない。

古奈村の馬士が手綱を引き、平三は、後方に付けられた足場板を支えながら、土砂を押した。それは、予想以上に効率が良かった。「こりゃあいい!」

馬士たちは、呆気にとられていた。
「おいおい、見てばかりいねえで俺たちもやろうぜ」

平三たちの懸命な様子を見て、力を得た馬士たちは再び作業を続けた。漸く荷馬が通れるほどの道に復旧する事が出来た。

爪を剥がして血だらけになっている者もいる。しかし、誰の顔も爽やかだった。土砂崩れから、既に小半刻近くが経っていた。

網代へは、あと一里の所まで来ている。それぞれ荷を立て直し、出発の支度に掛かった。「又さん、どうだね歩けるかね」
「ああ、何とか大丈夫だ」
「だか、無理はしねえ方がいいぜ」
「いや、一緒に行かせてくれ…」

又七は、意地を張り立ち上がって見せたが、その顔は苦痛で歪み、額には脂汗が滲んでいた。
「そうかい分かったよ。だが、その様子じゃあ大丈夫とは言えねえ。先頭はやめて、俺の後ろから来た方がいい」
「ああ、そうさせてもらうよ」

平三の言葉に安堵したのか、あるいは少し気弱になったのか、又七は、馬を撫でながら小さな声で返事をした。

話を聞いていた馬士が、二人の中に入って来た。
「そんな体で馬を引ける訳がねえ。足手まといになるだけだ。やめとけやめとけ…」

厳しい言葉だった。しかし、又七の痛々しい姿は、彼ならずともそう思わせるほどのものであった。だが、又七はなんとしてでも行くつもりでいた。
「これ以上、あんたに関わるとろくな事がねえからな。よした方がお互いの為だ」

追い打ちをかけるように、もう一人が割り込んで来た。

又七は、顔が熱くなるのを感じていた。

─この野郎!─

そこまで声が出掛かっていた。

相手を睨んではいるが、その体はぶるぶると震えていた。

平三は、
「又さん、我慢だ、我慢しなよ…」

と宥めた。

又七は堪えた。
「又さんは見ての通りだ。皆の言う事は分かるが…」
「何でえ平さん、又七を庇い立てする事はねえんだよ。こいつは、ことごとく俺たちに逆らって来たんだぜ…」
「そう言わずに、まあ、色々あったがここはひとつ、俺に免じてかにしてくんねえ」

そう平三が言うと、馬士たちは自分の馬に戻った。
「平さん、済まねえ…」
「うん?気にする事はねえよ」

平三は、又七に手綱を渡した。

今、こうして隊列を組んで歩いている馬士たちも、きっと色々な事情があったに違いない。そうした中で、彼らなりにやり繰り算段して来たのだろうと平三は思った。

そして、又七の事にしても、平三は船守から話を聞くまでは、いやいや来ているのだと言う程度の認識であったし、乱暴な奴だ位にしか思っていなかった。

しかし、あんな風に船守や馬士たちに当たり散らしたのも、女房子供がいない寂しさゆえだろうと思えた。

一段落ついた所で文五郎は、
「大分遅れちまったが、もう一息だ。これからは下りだけだ。急ぎ足で行けば何とか間に合う。俺は先に降りて、多賀の村役人に知らせておく」

と言って馬を跳ばした。

「おい!大変だ。様子がおかしいぞ…」

樽を覗いていた北江間村の馬士が叫んだ。見ると、一尾が口をパクパクさせて水面近くに顔を見せていた。
「まずいな、直ぐに別の樽に入れ替えよう。忠さん、早く来てくんな…皆も、自分の荷を見てくれ、早いとこな…」

平三は、馬士たちに声を掛けた。

後ろにいた古奈村の馬が廻されて、樽の蓋が開けられた。
「しっかり掴んで…気を付けて入れてくれよ」移された鯛は、すぐさまバシャバシャと元気な動きを見せた。
「よし、これでいい。ほかの衆のは大丈夫かあ!」

平三は、見回した。すると、
「いや…俺のもまずいなあ」

全員樽の中を調べたが、前の方で、新たに三尾が弱っている事が分かった。
「どうしたもんかなあ!困ったな。さっきので、馬の足が止まったのが原因かな…まごまごしちゃあいられねえ、反対側の樽に入れよう。とにかく、支度が出来た者から歩き始めた方がいいな。行ってくんなあ…」

馬士たちは、次々に下り始めた。

残りの鯛が入れ替えられたの見て、
「それじゃあ、急いで行こう」

平三も、又七を気遣いながら下った。

だが、予定された時は刻々と近づいており、もう待ったなしの所まで来ているのだ。

やがて、ぽつんぽつんと下多賀の家並みが見えて来た。道幅も広く、緩やかな坂となり歩き易くなった。山道を下り切ってしまえば海岸に出る。

馬士たちは、もう疲れきっていた。それでも、ひたすら馬を引いた。
「おおーい!皆、急いでくれー」

常夜灯の前で、両手を大きく振りながら誰かが叫んでいる。

文五郎だった。
「もう少しだ。この先を曲がれば、あと七、八町で湊に着く。気を抜かずに行ってくれ」

網代湊が見えて来た。

東の空は、幾分白みかけてはいるが、村はまだ夜の佇まいを止めていた。

穏やかな入り江に、どっしりとしたニ艘の押送船が浮かんでいた。船上では、慌ただしく動く黒い人影が見える。
「あれだな!江戸送りは…」

塩久津湊で見たどの船よりも、一回り大きなものだった。
「間に合ったな!」

誰となく、声が上がった。

吹き上げて来る潮風が気持ち良かった。

御用の活鯛を荷出した責任と、網代湊に着いたと言う充足感が、彼らの心を和ませていた。

平三は、まだ見ぬ江戸に思いを馳せていた。

了 〈参考文献〉 『伊豆長岡町史』・『清水町史』 なお、橋本敬之氏より、種々ご教授頂いた。

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