第4回伊豆文学賞 最優秀賞「海の光」

ツイッターでツイート
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページID1044451  更新日 2023年1月11日

印刷大きな文字で印刷

最優秀賞「海の光」

島永 嘉子

娘の鮎子が五歳の秀介の手を引いて現われたのは、庭の柿の実がわずかに色づきはじめたころでした。網代の山側から海にかけて、夕焼けが水色の空を少し寂しい淡紅に染めていました。

網代の干物街道のなかほどを折れ、少し登った小高いところに家はあります。秀介は鮎子の指を三本しっかり握りしめて歩いてきました。秀介の面差しには川中を色濃く思わせるものがありましたが、褐色の肌理の細かな肌と挑発するような目は、鮎子のものでした。鮎子は疲れた顔に、秀介はおびえを見せる顔に夕陽を受け、瞳が光って見えたのを覚えています。その四つの瞳に見つめられて、私はでかかった声が喉に張り付いたようになっていました。

突然、鮎子から川中欣也という人と結婚することになったと電話があったのは十七年前の冬のはじめでした。

ともかく、川中さんに一度お会いしたいから、と私が言いますと、鮎子は電話口をふさいで何かしゃべっていましたが、
「じゃ、明日の午後行きます」

と、あっさり告げました。

夫の太介は掘りごたつに座ったまま、無言でした。

鮎子と私たちの間の歯車は狂ってしまったと、身に染みるようでした。

川中は二十三歳で、ひょろりと背が高く、二重の目と鼻筋のとおる顔立ちは、笑うと目もとがやわらいで形のよい唇から白い歯がのぞき、品の良さがありました。モデルをしており、テレビドラマのなんとかの役にスカウトされたところで、もう一つのテレビ出演も決まりそうだということでした。

色白の川中と並んで鮎子の色の黒さが目立つからでしょうか、磊落に喋りづめの鮎子が男で、にっと笑ってうなずくだけの川中が女のような錯覚に私はとらわれたりしました。

二十一歳になったばかりの鮎子のわずかな給料と、たまに入ってくる川中のアルバイト料で暮らすという話は、田舎の堅実な暮ししか知らない私たちには不安だらけでした。

太介が「子どもができたらどうするのか」と聞きますと、川中は「はあ」と下を向き、黙ってしまいました。

重苦しさを破って「なんとかなるわ」と鮎子がひきとり、「それに彼もテレ……」と続けようとしました。
「鮎子に聞いていない」

太介が言い、
「尋問受けにきたんじゃないわ」

鮎子も挑む口調になるのでした。

私はかたわらで聞きながら、鮎子はこんなふうに一人で背負っていくものがこれから沢山あるのかもしれないと、痛々しく感じたのでした。

もし川中が鮎子に引き摺られているのだったら、この結婚はうまくいかないのではないか、鮎子は川中に愛されている確信があるのだろうかと心配になっていました。おそらく、鮎子は川中に夢中になっていて、そんなことは考えていないのでしょう。

それでも私の用意した網代の魚市場からの新鮮ないかや金目鯛の刺身やもずく、それに山芋の料理を食べ、酒を飲んでからは、多少はくつろいだようで、二時間ほどもいましたでしょうか。

川中は父と離別した母と二人で暮らし、十八で東京に出て演劇学校に入ったこと、伊豆高原を友人と初めて旅したとき鮎子に会ったことなど、ぽつぽつ話したのでした。自分の将来をはっきり見すえるような強いところはないのですが、芯はしっかりしていると見えました。

危うげな二人ではあるけれど、祝福するよりほかないと私は思いました。

帰らなければと、鮎子と川中は腰を浮かせ、ありがとうございましたと挨拶をしてから、鮎子が早口で、
「結婚式は友だちが簡単にやってくれるの、彼のお母さんは九州からこられるのは無理だし、私のほうの親だけっていうのも変だから、来なくていいわ」

下を向いたまま言いました。

座卓に手をついて立ち上がろうとした太介の厳しい目と太介に向けた鮎子の目がぶつかり合いました。

鮎子は目をはずし、太介の怒りをしらっと退けると、玄関に向かいました。
「結婚の支度のことも話したいし、鮎子だけでも一晩泊まれない?」

私が廊下で小声で言いますと、首を振って、「だめなの、でもお母さんにちょっと話があるの」鮎子も珍しく囁くように応じました。

私はふっと襲う不安を押しやり、
「二人を送ってきますね」

八畳の客間の太介に声をかけました。太介は気力を失った目を私に当てただけでした。

冬の午後の陽射しが木立ちから洩れていました。坂を下りながら、白や紅色の山茶花が咲く道で、「欣也さん写真撮ろうか」と鮎子は立ち止まりました。

網代の海は、海底から逆に光が波間に射し込んでいるように輝き、緩やかに揺れていました。

ファインダーのなかで、鮎子は川中の肩に頭を寄せ、川中は鮎子の上に首を傾け二人は微笑みました。若さにあふれる美しいカップルでした。

つぎはお母さんと鮎ちゃん並んで、と川中に促されました。シャッターがおりると、鮎子はわたしの手を自分の腹に当てて、
「この写真には二人半が写ったのよ」

ちらと舌を出しました。
「彼もこれからの時だから、ほんとうは結婚したくないの。だけど、赤ちゃん生まれるから仕方ないって、結論になったの」

私を横から覗き見て言いました。川中は嬉しそうに、にこにこしていました。
「お父さんもお母さんも真面目一方だから驚くだろうし、言いにくかったの。‥‥でも私たちの子どもですもの、すごーく素敵な子ができると思わない?」

いつもの明るい鮎子に戻っていました。その笑顔を見ていると、子どものできたことを喜ぶだけで、育てることに伴う苦労まで考えがおよばない若い鮎子の手放しさを咎めることなどできないことでした。出来るだけのことはしてやろうと、私は考えたのでした。

東京の短大を受験したい、合格したら、大学に行っている兄の英介と住みたいと言い出したとき、太介が反対したのはこのような事態を予感したからでしょうか。

結局は頑として、決意を変えない鮎子に私たちは負け、鮎子は歓びに輝きながら東京に行きました。

太介は「短大を卒業したら、こちらに戻し、出来るだけ早く結婚させよう」と強い語調で言ったのでしたが。

入学して、二、三カ月後には英介から、学校をさぼるし、酒に酔って夜中に帰るし、ボーイフレンドを泊めるし、そのくらいまでは目をつぶっていたけど、じつは昨日は外泊したよ、僕には鮎子はわかんないよ、どうしたらいい?と苦情がありました。

太介はそのころ下田にある高校の教頭をしていましたが、それを聞くと、額に縦皺を寄せ、
「退学させよう、家に戻そう」

と言い、外泊した翌々日の土曜日には自ら東京まで行き、鮎子をつれ帰りました。

鮎子は太介の前ではしおらしく、
「ごめんなさい、鮎子が悪かったんです。これからはしません」

ひたすら謝るのです。が、私には、
「お母さん、鮎子が悪かった。でも短大の中退では中途半端でしょ。あたし、あんまりしつこく言われて、可哀想になって泊まってしまった。ただの過ちだったの。もう馬鹿なことはしないからお父さんに頼んで、お願い」

執拗に助けを求めるのです。太介には抵抗できないけれど、母親の私を味方につければなんとかなると、小さい頃から鮎子は直感的に知っていたのでしょう。
「また鮎子の作戦が始まった」

と英介によくからかわれたものです。

私はそういう鮎子が嫌ではなかったのかもしれません。窮地から逃げ出していく鮎子には、周囲の者にこの子を許してやっても仕方がないよ、と思わせてしまう何かがあるのでした。

私は平凡に暮らしてきた女ですから、鮎子に女として自立した新しい生き方を身に付けてほしいと願っていました。もっとも、幸せな結婚をしてほしいとも思っていたのですが、それは両立が難しいことだったのでしょうか。

進学を望んだときも、私は具体的な職業に続く、例えば、看護学校や栄養士の学校はどうかしらと、言ったのでした。それでなければ、英介より頭の回転は良いのですから、少し頑張れば四年制の大学に行くことも可能だとも思ったのですが、太介も鮎子自身も短大がいいと考えたようでした。

鮎子はおとなしく勉強をするつもりがなかったのでしょう。こういうとき、私はどうしても一歩退いて、自分の意見を引っ込めてしまうのでした。
「ごめんなさい。今度だけは許してください」

鮎子は必死でした。太介が簡単に許すはずのないことをよく知っていましたから、
「外泊は絶対にしません。お酒も飲みません。ボーイフレンドもつくりません。良い成績を取ります。約束を破ったら退学させられてもかまいません。どうか許してください」

と並べ立てます。

思わず太介が苦笑すれば、それを逃さず、
「お願い、お母さんも頼んで」

私の手を握り、一緒に謝ってほしいと言うのでした。

網代の町にもこの家にも戻りたくない、東京で味わう自由を生涯、手離さない決意と見えました。

私が思わず口添えをしてしまいますと、
「そうやって冨美が鮎子を甘やかし、抑制のきかない自堕落な娘にしているのだ。わかっているだろうに」

太介の目に私は哀しみを見て、胸を衝かれました。

私は鮎子のこれから先のことを、太介ほどに深く考えていなかったのでしょうか。男親は女の子に甘いというけれど、太介は英介より鮎子に厳しくしすぎるとさえ、私は感じることもあったのです。

鮎子を許した日、太介は床の中で、
「許さなくとも、あれは家を出ていくだろう、縄で縛っておくわけにもいかん。東京にやったのが悪かったのだ。いや、東京にやらなくとも同じことになったのかもしれん。小さい頃からの育てかたが間違っていたのだ」

静かに語りだしたのです。

太介の父親が母親を苦しめた享楽的な血が自分の中にも流れていること、それは同時に自虐的になりやすい傾向があると気づいたときの怯え、太介はひたすらそうしたものを理性で抑え、教師を選び自分に枠をはめることでコントロールしてきたこと、鮎子にはその自分の血が見えること。
「わしにも迷いがあった。ただ押し殺すだけで、生きてきたことが良かったのかどうか、もっと自然に生きる方法はなかったのか‥‥その迷いがあったから、鮎子に甘くなった。甘かったのは冨美ばかりではない」

太介が呻くように言葉を途切らせたとき、私は半身を起こしました。

太介との結婚生活のなかで、私がいつも太介に従うことができたのは、まさにその激しさとそれを深く内省する太介の人柄を感じるゆえだったからでした。
「冨美がわしのことをわかってくれたからこそ、こうして暮してこられた。だが鮎子は女だから、もっと楽に暮せるようにも思ったが‥‥」

太介はそのまま黙ってしまいました。

私の中に蘇ってくる光景がありました。

鮎子が六歳の頃でした。

一つ年上の地主の長男の豊と、取っ組み合いの喧嘩をして帰ってきたことがありました。

豊と同い年の明弘が泣きそうな顔で従っており、鮎子の膝頭はかなりひどく切れ、当てていたタオルが赤く染まり、額には血がにじみ、洋服も顔も泥まみれでした。

あきれる私に、「だって明弘君のこと豊君が追いかけて三回も蹴りをくわえたんだよ」ほらこんなにと、明弘のかすり傷を見せたのです。
「豊君て卑怯なんだよ、すぐ暴力出して、すごーくいやなんだもん」

それでも喧嘩はいけないと言えば、「みんなが『鮎子がんばれ』って応援団してくれたよ。神主様だって、『鮎子負けるな』って言ったんだもん」

悪びれもせず、かえってさっぱりした顔でした。

神社の裏の林だったので、神主様が子どもたちと一緒に見て、
「引き分けじゃ、だが豊より年下だから鮎子の勝ちじゃ」

と頃合で止めてくれたということでした。

しかし、太介は、
「暴力で男の子に向かうとは身の程を知らない。男が本気を出せば鮎子が決して勝てることはない。もう喧嘩はしないと謝りなさい」

厳しく叱りました。

傷の痛みには一滴の涙も見せなかった鮎子は、
「お父さんは鮎子ばっかり怒る。鮎子のことをわかってくんないで怒ってばっかりいる」

大粒の涙で顔中を濡らし、悔し泣きをしました。

それは六歳の子とは思えない鋭さでした。

英介のはめをはずさない優等生ぶりより、私にはよほど好ましく、太介の怒りは鮎子には可哀想な気がしたのでした。

五、六歳の頃から近所の男の子や、女の子を引き連れて遊び、一つ年上の明弘がいつも影のようについていました。玩具でもお菓子でも誰かが欲しがれば、惜しむことなく与えしまい、もったいないことをしてはいけない、と叱りながら物に恬淡としているのも悪いことではないと、どこかで、私は許してしまっていました。

あの時、太介は鮎子の男を魅きつける、しかし自虐への傾きを直観して、怒ったのです。太介は、私が見ていたものとは違うものを鮎子に見ていたのでした。

鮎子は卒業前にアパレルメーカーに就職を決め、東京を離れませんでした。

鮎子と川中が東京で結婚式を挙げた日、私たちは鮎子のために貯えてあった金を祝いとして贈り、二人で網代の家でひっそり過ごしました。

七カ月後、鮎子は秀介を産みました。

台所と六畳一間のアパートに私が泊まり込むことは無理でしたから、鮎子は網代に戻り、幼い頃から鮎子をよく知っている安部先生の病院で予定より一週間早く出産したのでした。

赤子は可愛らしく、おとなしく、産まれる前は鮎子に渋面ばかり向けていた太介も我慢できなかったのでしょう。
「赤子はこんなに小さく、頼りなげなものだったか」

などと飽きずに顔をのぞき込むのでした。

東京から駈けつけた川中も嬉しそうで、二人で相談したが、お父さんに名付け親になってほしいのですが、と頼んできました。

太介は顔にこそ出しませんでしたが、嬉しかったのでしょう。待っていたように、十ほどの候補を早速に筆で書き、いそいそと神主様に見て貰いに行きました。神主様が丸印をつけた中から、太介の文字の入っている名前を川中と鮎子は選んだのでした。

太介は秀介を抱いて散歩に出たり、風呂に入れたりし、鮎子も太介もいつのまにか、秀介を中にして自然に笑い合い、一緒に散歩に行ったりしていました。

太介が心筋梗塞の軽い発作を起こしたのは秀介が二歳になった年の暮れでした。

そして八カ月後の二度目の発作で、あっけなく逝ってしまったのです。

看病もできないまま逝かれたのは切ないことでした。

五十四歳でした。私は四十九歳でした。

太介のいない家は波の音、川の流れの音、風、山、地面などのきしみやうなりに取り巻かれました。

地震のあった夜、蒲団の上に座り、海の音を探っていると、ふっと白い影になった太介が近くにいるのを感じたのでした。

その後で、祖先が漁師だったという太介の霊を祀るために、長谷観音に地蔵を奉納させてもらいました。

長谷観音に参るのが私の慰めになりました。

風を受けながら石段を登り、脚を休めるために振り返ると、網代の海が藍色に光り、漁船や養殖の筏が穏やかに揺れているのでした。

暮れるのが早い冬には熱海の灯が左手の奥に淡く瞬き、その手前の上多賀の灯はくっきり見えました。

それでも、家にも私の体の中にも、寂寥が漂い、長く消えませんでした。

鮎子が秀介を連れてきたのは眠れぬ日々が続きながらも、書道教室を開き、なんとか生活のリズムをつくりたいと、のろのろ動き出した頃でした。

疲れと興奮のないまぜの緊張のためでしょうか。秀介はその夜なかなか眠りませんでした。鮎子の手を固く握り締めて、やっと眠ったのは十時を過ぎていました。

鮎子はおいしいと茶を飲み、和菓子なんて久し振りと小さく笑いました。

首筋をもみほぐし、一息つくと、、川中と半年ほど前に正式に離婚したことを告げたのです。養育費もなにももらわなかったけど、勤めている会社の吉田達夫社長が結婚しよう、秀介も二人で育てようと言ってくれたとのことでした。

太介が亡くなり、秀介が三歳になった頃から川中はアパートに帰らない日が増え、鮎子も幼馴染みの豊に会うようになっていたと言うのです。
「田野村の豊さん?」

驚く私に、
「馬鹿ね、私って、好きだ、愛しているって言われているうちに、豊は善い人でしょ、そんな気になってしまったの。豊には悪いことをしてしまったと思っている」

私は背筋が冷たくなるようでした。

それは英介の結婚式の頃だったでしょうか。

一年ぶりで会った鮎子は深紅のベルベット地に緑の羊歯の書かれたミニドレスで、濃緑色のブレザーを着た秀介の手を引いていました。

会うなり、派手やかで大きな目を私にあて、
「川中は来ないわ」

と言いました。
「秀介、おばあちゃんに、こんにちはしなさい」

鮎子の手にしがみついている秀介はちらっと私を見ましたがなにも言いません。

その顔立ちと姿の端正さに私は見とれてしまいました。
「秀ちゃんはいくつになったの?」

秀介は暗い光を瞳に浮かべ、私を見つめ、用心深く四本の指を出しました。四歳にしては幼い動作でした。
「おばあちゃんのこと覚えているかな」

首を即座に振ると私の視線を煩わしそうに避けました。秀介の手を引こうとしますと、この子は固く手を閉じたままで、私は握りこぶしの上から手をつかみ、鮎子と三人で控室に向かいました。
「英介も心配していたけれど、川中さんとはどうなの?」

鮎子の定めのない日日を表わしているようなミニドレスと、すんなり伸びている脚を見まわして聞いていました。
「さあ、お母さんを喜ばせる報告はないし」

相変わらずの口調でした。
「生活はどうしているの?」
「吉田社長からブティックを一軒まかせてもらえることになったの、私にとても向いている店なの。だから経済的には問題ないわ、一度見に来てほしいな」
「そう。それは良かった。でも秀介に嫌な思いはさせないようにね」
「私だってそのくらいのこと考えているわよ」
「でも、…結婚式にそのドレスは短すぎる」

私は押さえた声で言いました。
「嫌ね、私に会えば文句ばかり、兄さんのお祝いにきたのよ、うるさいこと言わないで」

急に秀介が私の手をふりほどきました。

鮎子の刺々しさに驚いたのかと見ると秀介は鮎子の後ろに胸を張り付けるようにして、私を睨んでいるのでした。

鮎子の話は前後が混乱しがちで、話を繋げながら聞いていくと、鮎子に好きな人ができかかっており、吉田の焼きもちがひどく、吉田とこのまま結婚していいものかどうか確信が持てない、さりとて、秀介がいては十分に働けないから、別れる決意もできにくいし、というのです。

吉田の会社の企画と鮎子の感覚の良さがうまく噛み合い、店舗も三つに増え、順調に発展しているというのにです。

吉田は鮎子の良さを引き出すのがうまく、吉田といると安心感があるせいか、アイデアもたくさん出るのよね、ただ、一緒に暮らすと、年齢差もあるし、どうもしっくりこないのよ、仕事相手ならとても良いんだけど、などと相変わらず、自分勝手なことを言います。

鮎子の行状に眉をひそめながらも、女らしくと厳しく躾られ、常識の中から出ることのなかった私は、その奔放さを羨んでいたのでしょうか。それが鮎子をいつでも受け入れ、許してしまう甘さになってしまうのかもしれません。

いずれにしても、いまさら鮎子の血をなだめる手立てはないように思われ、深いため息が出るばかりでした。
「秀介に話してないのよ。あの子は頑固で私が話しても承知するはずないのよ。お母さん恩にきる。私がいなければあの子も諦めると思うし」

秀介が眠るまで握りしめていた手を見ながら、鮎子は言いました。

二十七歳になったばかりだというのに、鮎子の横顔には疲れと寂しさが見えました。
「少し痩せた?」

私が問いますと、
「そうかなぁ、自分のことなどかまっていられないこと多いから」

と鮎子は少し投げやりな調子で言うのです。

あまり幸せでないのかもしれない、そんな気がしました。

仕事中心になりがちで不安定な生活をする鮎子の所に秀介を置くのがいいのか。さりとて私には秀介の求める親の役割ができるのか自信もありません。

幼い日の子の可愛らしさは、後からは取り返せないし、自分を抑えて子どもと暮らすのも大切よ、子どもも親が自分を可愛がってくれたことが拠所になって成長するものなのよ、などと私が説く言葉にも、良くわかっているの、私も秀介を手から離したいと望んでいるわけじゃないの、一緒にいたい、でも、かえって良くないと思うことも多いの、お母さんでなければ頼んだりはしない、と、鮎子なりに考え、決めてしまっていました。

しばらくの間よ、長くては可哀想よと、私は言いましたが、結局私は秀介を預かったのでした。

翌朝早く目覚めた秀介は涙もこぼさず、
「おかあさん、おかあさん」と口の中でつぶやき、家からとび出そうとします。何を言っても、口を聞かず、食事もおやつも食べず、玩具屋に連れていっても見向きもしません。

駅のほうへ走ろうとして私の手を引っ張ります。網代の駅に着くと改札を走り抜け、東京へ帰る、と線路に下りようとし、抱きとめる私から手足を気も狂わんばかりに振って逃げようとしました。
「お母さんはお仕事で帰ったのだから、夜になったら電話して、いつ迎えに来てくれるか聞いてみよう」

秀介は鮎子に置いてきぼりをされた悲しい記憶があるのかもしれないと感じました。

私は低い声で、「お母さんは秀介のこと忘れたりはしないから大丈夫。東京から必ずお母さんは迎えに来るからね」と繰り返し、秀介の細い体を抱きホームの端に坐り込みました。

秀介にほんとうにすまないと思いました。鮎子を帰してはいけなかった。鮎子の言うなりになってはいけなかった。

小声で歌を歌ったり、話しかけたりしながら、どれほどそこにいたでしょうか。

暮れかけた空の下で、ホームのコンクリートが薄墨に染まり、線路が銀色に光りました。色を失ってしまったような一瞬に、線路の脇の草むらだけが緑色に鮮やかに見えました。そのひとむらの草のような秀介の体を抱きしめていると、秀介から私の胸に彼の言葉にできない哀しさが伝わってくるのでした。

こうして私と秀介の生活はスタートしたのでした。

幼稚園に手続きをしたり、近所の同年齢の子どもたちに遊びに来てもらったり、書道教室のある日は秀介も近くに座らせて教えたり、夜も本の読みきかせをしたり、せわしない日日になりました。

二十年余を経ているとはいえ、一男一女を育てているのですから、固く殻を閉ざしているこの子を見違えるようにしてやりたいと気負いもありました。鮎子に似ているかもしれないこの子を鮎子のようにはすまいという気持ちもありました。

望んで産んだその子を傷つけている鮎子です。私の育て方が失敗していることははっきりしていました。

寡黙で活動的でない秀介を周囲になじませたいとプールに連れていったり、サッカーのグループに入れてもらったりするのですが、私の姿を目のはじに入れていて、見えなくなると探し回ります。

幼稚園も通いたがらず、始めのうちは入り口から一歩も中に入らず、家に帰ることもありました。

それでも秀介の寝顔を見れば、その邪気のない愛らしさに見とれて、昼間の煩わしさや手こずったことなど忘れてしまうのでした。

小学校に入学するときに、鮎子のもとに戻したいとも考えたのですが、ようやく慣れ始めたこちらから、まったく知らない土地の集団に入れるのは秀介には酷のようでした。

鮎子も、
「そうだと思うの、多賀も和田木も網代も、みんなでどこを走り回っても山も海も川もすぐそこにあって、自然の音に囲まれていた。木や花がいっぱいあって、観音様も神社もお寺もどんなにか子どもに身近で優しかったか、東京にいるとしみじみ感じるの。こんなにいいところはめったにないって思う。ここで育ったことがすごく有り難い。お母さんのおかげで、秀介にもそれを味わわせてもらえる。もう少しお願いします」

とあっさりしたものでした。

秀介は小学校に入学しても、しばらくは送っていかなければならず、帰りは細い体に大きなランドセルを上下に振って、一目散に戻ってきたものでした。

鮎子からはときどき電話がありました。

始めは目を潤ませて、
「東京に行く、お母さんの所に行く」

と受話器にしがみつくようにして訴えていましたが、いつの頃からか、
「うん‥‥、うん‥‥、べつに、うん‥‥、そう‥‥」

言葉が少なくなっていきました。

小学校の四年の冬でした。

鮎子から電話が入り、
「そういう重大なことは母さんにも相談してほしかったのに。‥‥そう、‥吉田さんとは結婚するつもりだったのでしょう?‥‥、秀介にも良いお父さんになってもらえると思って、待っていたのに‥‥、で、これからどうしようというの‥‥店はどうなるの?‥‥」私は深い息を吐きました。

小柄で中肉の吉田は仕立ての良い地味な服を着て、何度か鮎子と一緒に網代に来てくれました。明るい艶のある肌をした人で秀介を見ると、大きくなったなーと穏やかな目を和ませるのでした。秀介を旅行に連れていったこともありました。
「秀介君と一緒に住みたいのだけれど、どうしても仕事が不規則で鮎子も仕事が好きで家庭的とは言えないところがありまして、私はかまわないのですし、そういうところが彼女の良いところだと思っているのですが」

と言ってくれたのでした。吉田と結婚してくれれば、鮎子にも秀介にも良いと長い間私は思っていたのでした。

鮎子に促され、私は秀介にかわろうとしました。

秀介は部屋の壁に背中を押しつけ立ったまま私を睨みつけました。「さ、おかあさんよ」特別嬉しそうな顔はしないまでも、今まで電話を拒んだことのなかった秀介が動きません。
「早く、長距離なんだから」

いや、と言えば、かたくなに否を通す秀介に手を焼くことがありましたから、私は焦り気味に受話器を渡そうとするのですが手を出しません。

急に自分の勉強部屋に走りこみました。

机の引き出し、物入れをひっくり返し、鮎子の与えた地球儀、筆立て、筆箱、ゲーム機、レゴの箱、玩具や丁寧に作ったプラモデルまで探し出しては力まかせに叩き付けました。

「こんなもん」「こんなもん」そう言いながら、ノートを引き破り、鞄を何度も投げ、机を引き摺り出してひっくり返し、本棚を動かそうと全身で力みました。

身体中にわきおこった怒りをどうしていいかわからなかったのでしょう。動かない本棚から本を投げつけながら、涙をふきこぼしていました。

何とかなだめなくてはと、私は秀介を抱いて止めようとしましたが、はねつけられました。凶暴な怒りでした。

この子の怒るのも無理はない、鮎子に母親の資格はない、と私も怒りがありました。でも私は肩や腕を震わせている秀介を黙って見つめることしかできませんでした。

三年経ち、四年過ぎても秀介の頬に明るさはなく、ねくら、へんじん、くらーい、と遠慮のない子どもたちから言われ続けました。

ただ不思議に孤立することはなかったようでした。近所の裕太君はいまだに仲良しですし、隣席に座った女の子が朝も帰りも誘ってくれたり、明弘さんの長女の祥子ちゃんがまめに遊びに来てくれたりしていました。

秀介が幼い頃から楽しみにしていたのは絵本の読みきかせでした。

ちょうど移動図書館の制度ができたところで、下多賀から和田木や網代に三週間に一度、小型バスを改造した図書館が来るようになりました。アイネクライネナハトムジクが聞こえてくると、手を繋いで出かけては二人分八冊の本を借り出したものです。

笑顔も怒り顔もなかなか見せない秀介が、寝る前のひとときを待ち、「もう少し」「もう一ページ」とせがみ、せがまれるのが嬉しくて、私はわざと時計を見て焦らしたり、
「実はおばあちゃんももっと読みたかった」などと言って、二人で笑いあったりしたものです。

それは秀介と私の気持ちが通いあう大切なひとときでした。

食も細く、扁桃腺を腫らす、下痢、風邪、気管支炎と病気にもよくなりました。

すると「おばあちゃん、ここにいて」と私を離しません。

書道教室があるときは、その隅に蒲団を敷き、衝立を立てて、寝かせたものでした。

英介も鮎子もそれなりによくできたので、秀介の成績が悪いことに私は悩みました。

習字は五歳で始めましたから字は上手で、漢字もたくさん知っているはずで、理解も悪くはないと思うのですが、学校では発言もせず算数の計算なども間違いだらけでした。

担任の先生からは「頭は悪くないのに授業をきちんと聞いてない」「うわの空で集中力が足りない」と言われました。

どこかに幼い頃の生活の傷が残っているせいなのかもしれないと、私は考え込むこともありました。

六年生の六月でした。私は買い物から帰り、おやつの用意をしていました。

ガラッと玄関の戸が開く音がしたのですが、そのまま誰の声もしません。胸騒ぎがして走り出ますと、Tシャツが引き裂かれ、細い肩を剥き出しにした、泥まみれの秀介が立っていました。靴も片足なしで白いソックスは泥水をしみ込ませ、顔は涙と土でくすんでいました。

めったに見せたことのない涙をため、恐れでぼんやりしているような目に私は声が出ず、裸足で土間に降りると秀介を抱きしめました。

抱かれた途端に秀介はクックッと苦しそうに呻き、しゃくりあげました。
「どうしたの?何が起こったの?」

問いかけても、声を殺し泣き続けるだけでした。
「話したくなければ話さなくていい。でもね、秀ちゃん、話さないのは苦しいのよ、苦しいのよ」

私は同じことを繰り返しました。

秀介が詰まらせている喉に手を突っ込んでつかえを取ってやりたい、いつもどこかに引っかかったままになる秀介の言葉を取り出したい、私は激して思いました。

なにもわからないながら、秀介の苦しさだけがその身体の温もりと一緒に私に移ってきました。

私は話したくないことを聞いても仕方がない、無理に聞かなくていいと思いながら、でもどうしたら秀介の苦しさを分け持ってやれるだろうか、それさえ出来そうにもない無力を感じていました。

夕方、二人で靴とカバンを捜しに行きました。

寺の裏林でカバンと靴は見つかりました。薄暗いなかで、踏みにじられた雑草と土や折れた枝を見て、私は秀介の無惨な気持ちを察しました。

噂で聞いていたM男の名を言うと、うなずいたのでした。M男は男の子にいたずらをした事件で警察で取り調べを受けたと囁かれていました。

七年暮しながら、甘えることも少なく私の注意をうるさがったり、無視したり、買ってきた衣服がいやだと手を通さなかったりする秀介に嫌気がさすことがありました。

この難しい子を私に押しつけたままでけろっとしている鮎子を内心で非難することもありました。

この日、私は秀介のこれから生きる世界は容易ではないのかもしれないと気づいたのでした。

無表情でひ弱な印象がありながら、川中に似た顔の造作と色黒の引き締まった横顔は、目立ちたくないという秀介の願いを裏切るだろうと感じたのです。この子を守るのは私しかいない、鮎子ではないと覚悟を迫られた気がする一方で、心底から秀介を愛しいとも感じました。

この後、半年以上もの間、秀介は夜中にうなされ、寝言を言い、閉じ込もりがちでした。痩せていき、気むずかしい秀介に辛抱強く優しく接したいと努めました。

二カ月に一度か二度は来ていた鮎子でしたが、そのうち電話だけになり、それも間遠になっていました。

秀介が中学二年の秋の終わりにかかってきた電話は、再婚するという知らせでした。

鮎子も三十六歳になっていました。
「‥‥でも子どもが嫌いでつくりたくないって人なの、でも‥‥、秀介を引き取ってもいいとは言ってくれてるんだけど、でも‥‥引き取れないかもしれない、‥‥秀介も難しい年頃でしょ。優しい人だし、男らしい人なんだけど‥‥でも‥‥」

でも、でも、と鮎子らしくもない歯切れの悪い少し甲高い声を私は聞いていました。秀介の低く柔らかい声となんと違うのでしょう。

私はそんな男はやめなさい、いつになったらわかるのよとでも言ってやりたいと、憤りに近い気持ちが湧いていました。

鮎子には秀介と一緒に暮す気持ちがあるのでしょうか。

しかし、もし秀介が望むならば、十四歳のいまが鮎子のもとに行く最後の機会かもしれない、鮎子の相手がどんな人であれ、母親のところに行かせてやらなければいけないのではないか。

その電話の後、私は秀介が五歳から私と暮すようになったいきさつをありのままに話しました。

秀介は黒く光る目を私にあて、じっと聞いていました。
「お母さんと暮す良い機会だと思う。秀介の好きなように選びなさい。おばあちゃんは寂しくなるけど、九年前から一人で暮すはずだったことを思えば、今まで秀介と暮せて幸せだった」

私が話し終わったあと、壁にもたれかかり膝を立てて、秀介は黙していました。

静かな波の音と近くを流れる川音が混じり合う、耳慣れていつもは気づかない音が、秀介と私の沈黙の間奏のように聞こえました。

秀介が発した言葉に私は驚きました。
「おばあちゃんが悪いんだ!」

私はしばらく口がきけませんでした。

私が秀介に不自由な思いをさせたことがあるでしょうか。

鮎子から送ってくる金にはなるべく手をつけず、わずかな夫の年金と書道教室の月謝でやりくりもしてきました。五十代六十代で、子育てするのは体力的にもきついものです。

書道教室は多いときには四十人もの子どもや大人が来ていました。その教材の手本書きや準備やら道具類の仕入れ、手入れ、掃除など、いっときを惜しんで動き回らなければならない時がありました。

それなのに秀介は私について歩き、手を繋ぎたがり、それが無理ならば私の衣服の裾を握って離しません。
「おばあちゃん、おばあちゃん」と言われると悪い気持ちはしない反面、能率が悪く終わった後は疲れきってしまうのでした。

あの頃、秀介が豊の子だという噂が流れ、秀介を目で指し、
「田野村の豊さんの子ぉだか」

あからさまに聞く人すらいました。

秀介にとって無遠慮に注がれる他人の目ほど嫌なものはないようで、ますます私の影に隠れがちになりました。

私は秀介のためにその噂を否定し、秀介は私生児ではなく、多少は知る人もいる川中欣也と言うテレビ俳優の子だと空しさを覚えつつ説いたのでした。

いま思えばまだ私も若くエネルギーもあったのでしょう。

楽しさも悔しさも、同じように、「まあね」「べつに」で、会話らしいものもない日を重ねながら、わずかに絵がうまい、手の筋がいいと祖母馬鹿を演じてきただけなのでしょうか。

私は身体が熱くなって、
「なぜ、なぜ、そんなことを言う」

と、秀介を睨みました。

秀介は口から吐き捨てたいというように、言いました。
「子どもを捨てるような母さんを育てただ」

そこに座っている秀介を私は初めて見る人のように思いました。
「おれは父親から捨てられ、母親にも捨てられたんだ」

私はぼんやりしました。

『捨てられた』などと、秀介はいつから思っていたのでしょうか。

あの初めての晩、鮎子の手を固く握りしめていたときに、捨てられるかもしれないと感じていたのでしょうか。

私の姿が見えないと捜し歩いたのは私にまで捨てられると心配だったためでしょうか。

私は秀介が急に知らない人になってしまった気がして、見つめました。

秀介はきつい眼差しを向けました。

私と秀介の瞳が絡みました。
「なぜ、そんなことを、‥‥捨てられたなんて‥‥」

私の声は震えました。
「おばあちゃんはなぜ、母さんを怒らん」

秀介は目をいっぱいに見開いて言いました。
「さっきも、母さんは馬鹿なことをしてとおばあちゃんは言っただ。吉田とも別れないほうがいいと言っただが。そう母さんになぜ言わなかっただか、そう言や母さんは考え直したかもしれないだ」

精一杯、秀介は私にぶつかってきました。
「あー、あー」

私は自分でもわからない声をあげました。

そうです。叱りつけたい、と思ったことがあった。あの五歳の秀介を連れてきたときも、もし私がしっかり鮎子を叱れれば、拒めば、秀介は鮎子と曲がりなりにも暮せたはずです。東京に帰ると言った秀介のほうが正しかった。

秀介をそれなりに可愛がり、鮎子を包み、経済力もある吉田と別れたいと言った鮎子に、自分を粗末にするのもいい加減にしなさいと言いたかったのです。秀介と鮎子自身の幸せを足蹴にしたと感じたのでした。

でも叱れなかった。

私は混乱した頭で、秀介の言ったことを反芻しました。

鮎子の力に母親の私が圧倒されてしまうなんてだらしがないことです。母親の資格はないのです。

秀介はそれを私が意気地がないと感じていたのです。あの凶暴なほどの怒りを見せたときも、秀介は自分の代わりに鮎子を私に叱ってほしいと思ったのでしょうか。言葉では表わせなかったための怒りだったのに、私にはわからなかった。

私はポットを引き寄せ湯を急須に注ぎ、茶を入れました。柄にもなく大きな声を出し、喉が妙にいがらっぽくなっていました。二つの湯のみに注ぎ、
「はい」

と私は秀介に湯のみを差し出しました。彼も喉が乾いているとわかっていました。

秀介も素直に受け取りました。

甘い茶が食道を伝わっていきました。

秀介もうまそうに一気に飲み干しました。

少年らしい、薄い皮膚の下で、小さい喉仏がこくっこくっと動きました。

白っぽくわずかに光るそれを見ながら、いつのまに一人前に喉仏なんかできたのだろうと思いました。

互いに大きな声を出し合ったのは初めてのことでした。

その余震のようにまだ手にはわずかな震えが残っていました。

秀介は壁から背を離し、
「おかわり」

湯のみを突き出しました。その茶碗が細かく揺れていました。
「そうだが、おばあちゃんは怒ったり、大声出したりしてはいけないって、いつも考えて、‥‥怒るなんて出来なかった」

再び動いている喉仏を見ながら、長い間その喉の奥にためていたに違いない秀介の言葉に納得していました。

妙なものです。怒鳴りあったあの時から、私と秀介のあいだで何かが変わったようでした。表面的にはどこも変わって見えないのです。
「いってらっしゃい」「いってきます」、「数学のテストどうだった?」「べつに」、「バスケットの試合あるって聞いたけど」「ああ、今度の日曜弁当いる」「どこでやるの?」「知らん」、

相変わらずそっけない日常です。

でも、私は秀介の考えていることや行動をなんとなく信頼するようになりました。電話で長話をしていても、部屋に閉じこもっていても、以前ほど気にならなくなりました。

秀介は今年十六歳になりました。

秋の彼岸の日でした。私はいつものようにおはぎをたくさんつくり、近くの親戚やら近所に配り、一つしか口にしない秀介にがっかりしながら、五つ食べてしまいました。食べ過ぎだったのでしょう。気分が悪くなり戻してしまいました。

医者にかかるのは久し振りでした。医者に勧められ、検査したのも念のためでした。それが胃カメラを飲むことになり、癌だと告げられたのです。

熱海の病院で、私は途方に暮れて待合室に座っていました。

英介か、鮎子に連絡しておけば良かった、身内に電話しようかなどと、まとまりなく思っていましたが、立ちあがれませんでした。

秀介の帰宅にはまだ四時間以上ありました。

待合室から人の姿がしだいに消え、私一人になって、どれほど経ったでしょうか。

現れた秀介を認めて、私はほっとしました。
「クラブ休んできたんだ。どうしたの?」

秀介の言葉が終わらないうちに、ただ私は首を振りました。
「えっ、どうしたの、悪かったの?」

私はうなずきました。
「癌」

急に涙が出てきました。
「ちぇっ、おばあちゃんに直接言ったの?ちえっ、やばいよ」

秀介の顔が蒼白になりました。秀介は踵を返すと、スニーカーの音を軽く響かせて走っていきました。

まだ病院にいた診断をした医師に会い、本人になぜ告げたのかを質し、内視鏡で取るのは難しい場所なので、むしろ手術で取るほうが簡単なこと、九割以上は大丈夫だと医者から言わせ、
「こんなに早期で見つかってラッキーだぜ」

と私を安心させてくれました。

十六歳で秀介は六十四歳の私の保護者のようでした。

入院して手術を待つ間、自分の身体が自分のものでない心もとなさのなかで、私は秀介の骨の尖ったような喉仏を見るとそれを払いのけることが出来ました。

もしかしたら、太介が私の寂しさを見かねて秀介を私のところに寄越してくれたのかもしれない、と夜の病室で思うこともありました。

手術に向かう朝、私は秀介に、ありがとう、秀介のおかげで普通の人の二倍生きられた気がする、というようなことを言いたいと思いました。

でも、口を開けたのですが黙って、秀介の出した手を握っただけでした。

すると、秀介が、
「言いたければ言ったほうがいいよ。そのほうが楽だぜ」

と微笑しました。

小さい頃から秀介が喉に詰まらせている言葉をどれほど取り出してやりたかったことでしょう。

でも私も同じように喉に言葉やら、想いを一杯詰めこんでいたのです。秀介はそれに気づいていたのです。

この子がいてくれて良かった、男の子は頼もしくなるものだと、私は秀介の笑顔にうなずき返しました。
「さっき、長谷観音にお参りしてきた」

秀介は照れくさそうに言い、陽光のこぼれる窓のほうに視線を向けました。

このページに関するお問い合わせ

スポーツ・文化観光部文化局文化政策課
〒420-8601 静岡市葵区追手町9-6
電話番号:054-221-2252
ファクス番号:054-221-2827
arts@pref.shizuoka.lg.jp