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更新日:令和2年10月28日

人権-助け合い支え合っていることの自覚を-

常葉学園大学副学長 角替 弘志

大学などで学生の話をそれとなく聞いていると、「自分は誰にも助けてもらっていないし、誰にも迷惑をかけていない」と思っている者が意外に多いことに気付く。しかし、そのような学生の着ている服や、携帯している物のすべてがどこかで購入したもので、自分で作った物は何一つない(と思う)。ちゃんとお金(対価)を払って購入したのだから「助けてもらったことにはならない」と思っているのだろうが、自分で作ったわけではないから、たとえお金を払おうと、それを作った人(誰かは分からないが)に助けてもらったことには違いない。終戦直後の食糧難の頃、少々値段が張っても米や芋を分けてくれる農家が見つかると本当に助かったと思ったものである。

物が豊富に作られ、出回るようになるにつれて、お金を出しさえすれば、特別な物でない限り、欲しい物は何でも手に入れることができることが当たり前になった。ただ、それだけ(それを作っている人に)助けられたという気持ちは薄らいだ。

お金というものは、本来は物を作る人と使う人をつなぐ、すなわち物の流通を円滑にする道具であったはずである。お金は助け合いの道具(方法)であり、豊富に作られた物はお金を媒介として、それを欲する(必要とする)多くの人々に渡されることになる。物が豊富に作られ、それが人々に広く行き渡る社会は、その意味では、人々の助け合い、支え合いが自然のうちに濃密に行われている社会であると言うことができる。

しかし、豊かな社会が助け合いの社会であるという実感はあまりない。むしろ、人間関係の疎遠な社会であると感じている人の方が多いかもしれない。お互いに必要とする物と物を直接に交換する物々交換から、お金によって物が間接的に交換されるようになるにしたがって、互いに助けられた、感謝しなければならないと思わなくても済むようになり、ある意味では心の負担がそれだけ軽くなった。さらに、お金があまりに便利な道具であることから、いつしかお金を物の交換のための手段・方法と考えるよりも、お金は目的となり、それを貯めることに関心が向けられるようになってしまった。人よりもお金と思う人が増えてしまった。

人権を大切にするということは、お互いに人を大切にするということに他ならない。人は絶海の孤島に一人で生きているのでないかぎり、すべてを自給自足で生活することなど不可能に近い。どんなに強がりを言ってみても、結局は、人はどこかで誰かが作り出した物に依存して生活している。人が二人以上一緒に暮らすかぎり、無意識のうちに、自然に相互に助け合っているのであり、互いに助け合いながらしか生きていけない。生活が物質的に豊かになったからこそ、この豊かさが相互の助け合いによって支えられていることを改めて自覚し、それぞれの人を尊重する社会が本当の意味で豊かな社会であることを互いに確かめ合いたいものである。