あなたの「富士山物語」(母の富士は不死への願い/望月英昭)

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ページID1019368  更新日 2023年1月13日

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母の富士は不死への願い/望月英昭

六十八歳で重い心臓病に倒れた。長いICUの後、生き返って最初に静岡病院十三階より美しい富士が見えた。二年後父が脳梗塞で他界、一人暮らしとなった。何度も入退院を繰り返しながら、血流の悪さはどんどん老化を早めた。休みの日には、今しかないだろうと思って、不安は一杯だったがあちこち出掛けた。西伊豆からの富士の夕日、沼津港からの帰りの富士の雄大な姿に感動した。最後はすぐ近くの焼津のホテルだった。帰りには大崩から神々しい富士が見えた。

私の自宅の関東からも一年のうち二月の二週間程、西にかすんだ小さな富士が見える。通勤で通る大利根橋から富士が見える度に、弱っていく母が心配になった。二週間に一度の帰省では手に負えなくなり、八十歳をきっかけに一時こちらに戻り介護を始めた。月に一度の通院の時、安西橋から富士が見えると微笑んだ。検査では時に十本も採血された。全て終わった三時過ぎ、必ず大好きな回転ずしでカルシウムを補給した。ここへ向かう時、国一の柚木あたりから富士がとても大きく見えた。病院が終わった安心感からか、ここではいつも大きく頷いた。
足腰も弱まり要介護3となり、通院以外は全く外出出来なくなった。しかし、一昨年の冬その日は調子が良く、車で「だいらぼう」にゆっくりゆっくり登った。山頂の木々の紅葉の先に富士が見えた。ただもう車を降りることはなかった。

昨年の冬、もう限界で心臓が肥大し帰らぬ人となった。通夜は雨だったが、葬儀の日、慈悲尾の葬儀場からの出棺の時、ぱっと空が晴れ、目の前に頭に雪を被った富士が顔を出した。最後の挨拶をしに来てくれたのだろうと思った。

母の部屋の整理で、沢山の心臓病の本のどれにも大量の付箋が入っているのに気付いた。少しでも長く生きたい、母にとっての富士は正に「不死」だった。母の思い出は全て富士の姿につながる。重病をここ迄生きられたのは、きっと富士に生きようという心を支える力があったに違いない。母にそして富士山に心から感謝しています。

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