• 総合トップへ
  • ふじのくに魅力情報
  • 音声読み上げ
  • 文字サイズ・色合いの変更
  • ふりがな表示 ふりがな非表示
  • 組織(部署)から探す
  • Other language
  • ホーム
  • くらし・環境
  • 健康・福祉
  • 教育・文化
  • 産業・雇用
  • 交流・まちづくり
  • 県政情報

ここから本文です。

更新日:令和3年11月2日

「らしく」と偏見

小児科医・臨床遺伝医 長谷川 知子

障害をもつ子のお母さんたちがお茶しながらしゃべっていたとき、こんな話が出ました。「学校の先生に『障害児の母親らしくない』と言われた」それを聞いて皆あっけにとられました。「はあ?障害児の母親って??」「くらーく悩んでいる母親のこと?」「むしろ明るくひたむきにガンバッている母親のことじゃない??」「ヘンなの―!」。
この「らしく」をお母さんたちが異様と感じたのは、言う人の独断的思いこみだっからでしょう。もちろん、「らしく」がすべて偏見とは限りません。「その人らしく」生きることで、無理な背伸びをせずとも個性が生かせるでしょう。でも、その「人」にレッテルが貼られていたら、それは偏見になりますね。「女らしい」とか「男らしい」と言ったとき、女性や男性のありのままの姿ではなくて、あなたの期待する女性像や男性像が反映していないでしょうか?たとえば、「女は感性」だけの存在と信じていませんか?
でも、理屈っぽい女の子って多いのです。理屈っぽいほうが普通かもしれません。大人でも女性のほうが理不尽なことに敏感です。それなのに、日本の社会では、女は理屈を言わないはずという暗黙の前提があって、「理屈っぽい女の子」の伸ばしかたを知りません。理屈が、大人として必要な「論理的思考」に向けて教育されないため、筋道立てて考えることができず、言語化できず、理不尽なことに直面してもイラつくだけで対処できず、文句や愚痴こぼしで終わってしまう…これは人権意識の向上や社会変革からほど遠い状態です。
一方、男の子は生来論理的と信じられているせいか、多様な現実を論理的に考えるような教育はされていないようです。以前、あるTV局のディレクター(女性)と話していて、私が「男性が生まれつき論理的とは思いませんね。論理的に考えるには男女とも学びが必要」と言ったところ、そのディレクターは「え?男性は論理的じゃないですか?」と問い返しました。社会の先端にいるのに偏見バリバリだなあと思って、こう答えました。「論理をとうとうと述べている人に、その論理の矛盾をついてごらんなさい。だいたいの人は怒りだすでしょ。それって論理的と言えます?」「…」。
偏見は人生の可能性を押さえてしまいます。人権の大敵、そんな偏見って、身近にもたくさんありませんか。