あなたの「富士山物語」(「雲海を走る富士登山駅伝」の切ない思い出/藤岡正敏)

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ページID1019337  更新日 2023年1月13日

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「雲海を走る富士登山駅伝」の切ない思い出/藤岡正敏

一九八八年、第十三回「雲海を走る富士登山駅伝」を初めて走った。

私の担当は上りの三区と、下りの九区だった。なぜ二回も走るかといえば、この駅伝独特の伝統で、「上りを担当した者が、責任をもって下りてこい」ということだからだ。それが、《登山》という行為の属性をみごとに象徴している。上りと下りの二回も走るところが、ありきたりの平地での駅伝と明らかにちがっている。

そのとき私は三十九歳だった。年齢からいえば、富士登山駅伝を走るには、きつすぎた。じっさい、私と一緒に走った沖縄から初参加したUS Marines(米海兵隊)のPringleと名乗った黒人は、十七歳だった。そんな若者と、三十九歳のおじさんが対等に勝負できるわけがなかった。初めから離された。それでも私なりに懸命に走ったのだが、記録をみるとビリから二番目のブービーだった。

新五合目で襷をつないだ。四区のランナーが大砂走りを駆け上がり、次々に襷をつないで富士山頂を極め、また下ってくるのだ。それまでの間、しばらく休むことができた。しかし、それにしてもきつい駅伝である。下りは下りで勾配が急なので、スピードを出しすぎるとこけそうになる。そこで私は、何度もブレーキをかけざるを得なかった。九区の記録も、私がブービーだった。ちなみに、三区のときのビリは、九区では私よりももっと速く走っていた。

これに懲りて、次の年からは応援に回ることにした。じっさい、走るよりも、応援する方がはるかに気楽である。大会前夜、まず富士山頂に登ってチームの健闘を祈願し、翌朝ご来光を拝んでから、応援担当の大砂走りまで下って、選手が来るのを待った。

テレビ局のカメラが待ち構えていて、選手が砂に足を取られてこけるたびに、情け容赦もなくアップで撮る。無事通過する選手は撮らない。つまり、彼らは砂に顔を突っ込んで真っ黒になった選手だけを選んで撮った。なるほど、これが彼らのやらせ精神なのか。

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